岡野 栄之
慶應義塾大学再生医療リサーチセンター教授・センター長
目次
2025年5月27日、初夏の陽光が差し込む慶應義塾大学再生医療リサーチセンターの一室。ここで行われた85分間のインタビューは、日本の再生医療研究の生き証人とも言える岡野栄之教授の四半世紀にわたる挑戦の軌跡を浮き彫りにした。
「定年前は全然行っていなかったです。あちらから必要な時に来ていました」― 65歳の定年を迎えた後、岡野氏の生活は大きく変わった。現在は週2回、ケイファーマ社に足を運ぶ。この変化は単なる時間的余裕の産物ではない。「自分達の研究が実際に患者様の元に届き、確かな治療として社会に承認され、更にそれを、いわゆる輸出産業として日本のキラーコンテンツとして世界に発信し、人類に役立てるまで、そこまでしたい」という、研究者としての究極の目標への強い意志の表れだ。
岡野氏の研究対象は、いずれも現代医学の最前線で未解決の課題として立ちはだかる疾患群だ。脊髄損傷、筋萎縮性側索硬化症(ALS)、アルツハイマー病。これらは単に医学的な難題というだけでなく、患者とその家族の人生を根底から変えてしまう深刻な社会問題でもある。岡野氏はこれらのアンメットメディカルニーズに対して、再生医療と創薬という二つのアプローチで挑み続けている。
しかし、岡野氏の研究哲学はそれだけにとどまらない。「リバーストランスレーショナルリサーチ」という言葉に込められた思いがある。基礎研究から臨床応用へという一方通行ではなく、臨床での知見を基礎研究にフィードバックし、さらなる技術革新につなげる。この双方向のアプローチこそが、岡野氏が追求する研究の真髄だ。
岡野氏のベンチャー企業との関わりは、歴史的な日付とともに始まった。2001年9月11日、まさにアメリカで同時多発テロという悲しい出来事が起きたその日、森氏と川西氏という二人の経営者がアメリカから岡野氏のもとを訪れた。
「それまで神経再生の研究に専念してきて、ベンチャー企業には一切関わっていませんでした」と岡野氏は当時を振り返る。すでにいくつかの特許は出願していたものの、それを事業化するという発想はなかった。しかし、訪問者たちは違った。彼らは岡野氏の研究成果、特に論文や報道を通じて知った神経再生技術に大きな可能性を見出していた。特許のライセンスアウトと、創業科学者としての参画を求めてきたのだ。
当時の日本の規制環境は、再生医療にとって未開の地だった。「日本のPMDAは、2001年の段階では、全く再生医療製品を審査したことなく、いつ通るか分からない」という状況。そこでサンバイオは、スタンフォード大学近くのマウンテンビュードライブ、まさに“ガレージ”から事業をスタートさせた。シリコンバレーの伝統的なスタートアップの始まり方そのものだった。
岡野氏自身も、シリーズAの資金調達で重要な役割を果たした。「VCに20数社に対して、私がプレゼンしました」という言葉が示すように、研究者でありながら投資家へのピッチに奔走した。その結果、20ミリオンドルの調達に成功し、「潤沢な資金のもとに事業を始めた」のだった。
転機は2013年から2014年にかけて訪れた。日本で薬機法が改正され、再生医療等製品の迅速承認制度、早期承認制度が整備された。「意外に日本で行った方が早いのではないか」という判断から、サンバイオは大胆な戦略転換を行った。アメリカのサンバイオ・インクから、日本のサンバイオへ。本社を東京に移し、2015年4月には東証マザーズ市場でのIPOを果たした。
但し、サンバイオの歴史には、危機を乗り越えた印象的なエピソードがある。リーマンショックの際、経営陣が「もうダメです、もうこれで今生のお別れでございます」という覚悟で岡野氏のもとを訪れた。しかし、岡野氏の反応は意外なものだった。「リーマンブラザーズが潰れたのに、まだ君たちが潰れてないのは大したものですよ」。この一言で「目から鱗が落ちる」思いをした経営陣は、事業継続を決意した。
岡野氏は「結構大事な役割をしてますね、そういう意味では」と評されるこのエピソードについて、研究者としてだけでなく、精神的な支柱としても大きな役割を果たしていたことを示している。
サンバイオの株価は、まさにバイオベンチャーの宿命を体現するような推移を辿った。脳梗塞治療への期待から、一時は1万8000円まで上昇。しかし「有意差なし」という結果が出ると、600円から500円まで暴落した。「もうダメかと思った」という状況から、外傷性脳損傷への適応で条件付き早期承認を達成し、現在は2800~3500円程度まで回復している。
「上場してから10年経って、ある程度、薬価がつけば収益が入ってくる訳ですからね」という岡野氏の言葉は、バイオベンチャーの長期戦を象徴している。IPOはゴールではなく「途中のロードマップ」に過ぎない。信用を得て、良い人材を集め、次の資金調達をつなげるステップなのだ。
2016年、岡野氏のもとに新たな共同創業者が現れた。エーザイの認知症プロジェクトでアドバイザーを務めていた岡野氏と知り合った福島氏だ。エーザイを退職後、「ちょっと研究室に出入りしていいですか」と訪れた福島氏は、研究室のミーティングに参加するうちに、大きな可能性を見出した。
「知財の持って行き方や、どうやって社会実装するかということをよく知っているから、みんなが結構頼って」いた福島氏は、「じゃあこういう成果がこれだけあるんだったら会社を絶対作れますよ」と提案。岡野氏、慶應義塾大学の中村 雅也教授とともに、ケイファーマを立ち上げることになった。
「研究室そのまんま」のビジネスモデル ケイファーマの特徴は、その事業内容が「私の研究室で行っていることそのまま」だということだ。これは単純に聞こえるかもしれないが、実は大学の研究成果を社会実装する理想的な形だ。慶應で行った研究を知財化し、それをケイファーマにライセンシングする。「かなりの部分が慶應で行ってきた研究を、知財を取ってライセンシングしている状況」というのは、大学発ベンチャーの一つの成功モデルを示している。
特に注目すべきは、iPS細胞を使った創薬プラットフォームだ。患者の血液や細胞からiPS細胞を作り、実際に障害される細胞を再現。病態を定量化し、候補化合物から薬を選定する。このプロセスは、まさに岡野研究室で培われた技術の集大成だ。
ケイファーマの成長には、もう一人の重要人物がいた。「技術畑の人だけだと、資金調達はいまいちうまくいかない」という課題を抱えていた時、福島氏が慶應義塾大学ビジネス・スクールのエグゼクティブコースで出会った松本氏だ。「何社もの企業を上場に導いた」経験を持つ松本氏のCFO就任により、「順調に資金調達が進み」、上場への道筋が見えてきた。
しかし、ケイファーマは現在、重要な岐路に立っている。「時価総額100億の体力でどこまでできるか」という問題だ。パイプラインは5個程度あるが、「1個治験やるのに何十億とかかるので、時価総額100億でも全然足りない」。
この状況に対して、岡野氏は二つの選択肢を示す。「1個当てて、すごい体力をつけて次に臨むという自転車操業的にやるのか、あるいは大企業と組むのか」。この戦略的判断は、「ベンチャーらしくていいのかもしれませんけどね、そういうことを考えるのがまた新鮮で良いです」と、挑戦を楽しむような姿勢も見せる。
資金調達において、岡野氏は独自の強みを持っている。「製薬企業の上層部は、慶應出身の社長が多い」のだ。「ちょっと来てくれませんか」と直接依頼がある。これは単なる学閥の利用ではなく、共通の価値観と信頼関係に基づいたネットワークの活用だ。
クリングルファーマは、HGF(肝細胞増殖因子)を使った脊髄損傷治療を手がける企業だ。興味深いのは、HGF自体は大阪大学で発見された分子であるにも関わらず、岡野氏らが脊髄損傷への応用で米国特許を取得したことだ。
この特許取得には苦労があった。「大学院生が、全然気にせずに学会発表をしてしまったから、結局日本で取れなくなった」という状況に陥った。しかし、「大学院生の実験ノートにきちんと日付等が書かれてあった」ことが救いとなった。当時のアメリカは先発明主義だったため、実験ノートの日付を基に特許出願し、無事に特許を取得できたのだ。
岡野氏の関わるベンチャーは、ヒト医療だけにとどまらない。VETANIC(ベタニック)は、動物のiPS細胞技術を基にしたペットの再生医療を手がける企業だ。「ペットだと臨床試験がなくても実用化できる」という規制上の特徴があり、「レギュレーションの考え方が全く異なります」という環境で事業を展開している。
岡野氏の知財に対する理解は、最初から完璧だったわけではない。1998年頃、JSTが「とにかく特許出してください」と要請してきた時期から、試行錯誤が始まった。
「最初は経験がないので、とにかくJSTが採用したアドバイザーの方たちに」一任していた。しかし、痛い経験をすることになる。「自分自身の公表で、もう公知の事実と言われて」特許が取れなかったのだ。日本では自身の学会発表でも新規性を失うが、当時のアメリカは先発明主義だった。この違いを理解し、活用することがその後の知財戦略の基礎となった。
「単発の特許で会社を立ち上げるのは、よほど優れた特許でなければ成功は難しい」― これが岡野氏の結論だ。なぜなら、国を問わず、特許審査官は「拒絶理由がないかを徹底的に精査する傾向がある」からだ。「大きな検索システムを使ってありとあらゆる文献見つけて、十分な内容確認も経ずに、特定のキーワードが含まれている事を理由として」拒絶理由を出してくることが多く、反論するのもとても大変である。
そのため、「複数の特許を戦略的に取得・組み合わせる事で、絶対他者が容易に参入出来ないという状況を作らないと、自分の研究が守れないし強くなれない」。これは単なる防御ではない。「資金力があるところが、完全に真似して、資金と人材を注ぎ込んで、もっとスピーディに、さらに良いものを先に出したら、もう絶対負けます」という現実的な脅威に対する対抗策だ。
岡野氏は、論文執筆と特許出願は矛盾しないと考えている。「論文なんて新規性がないと論文にならないですからね。だから新規性のあることをやると特許になる可能性が結構あります」。さらに、「アメリカの仮出願でしたら論文のドラフトでも十分可能です」という事実は、アカデミアからイノベーションが生まれやすい環境を示している。
重要なのは、慶應の知財担当者との連携だ。RU11(研究大学強化促進事業採択大学)として知財担当者の採用を大学に要請し、「元々特許庁で審査をしてた人物」や「複数の企業で知的財産分野に携わってきた専門家」を確保。科学論文と特許の「共通点を狙って出願する」戦略を練り上げている。
ケイファーマの強みは、ALSに対する治療効果を持つ化合物の特許にある。「iPS細胞を使った治療候補薬を見つけて、それがALSに対する治療効果があるという論文を出すと同時に特許を得た」。さらに「各国への特許移行も進めており、海外市場での事業展開を見据えた体制を整えている」という国際展開も視野に入れている。
「他の会社が似たようなことを言ったら、特許侵害で訴えることもできる」という守りの面と、「その企業がその知財に基づいてビジネスプランを描ける様になっている」という攻めの面、両方を持つ知財戦略が展開されている。
岡野研究室の文化を一言で表すなら「研究は気合い」だ。この言葉は単純に聞こえるかもしれないが、深い意味を持っている。「いい研究でいい成果で、独創的なもので、しかも新規だったら、それで知財が取れる」という一連のプロセスへの強い意志が込められている。
研究テーマの選定においても明確な基準がある。「新たな科学技術によって新しい治療法の開発や、病態解析の方法に繋がることを目指させてます」。逆に「人が行っていることの焼き直し」は許されない。「全く面白くない」と断言する。
岡野氏のインパクトは数字が物語る。これまでに100人以上の博士を輩出し、34人(インタビュー時点)の教授を育てた。この数字は、MITのロバート・ランガー教授と比較されることもある。
ランガー研究室では「2年に1回、12月の終わりぐらいにマウイ島でミーティングを行っている」という。参加者は「会社を経営している人たちばかり」で、「みんなランガー研出身」だという。さらに印象的なのは、「5歳ぐらいの子供を連れてきている人もいて」「単にハワイだから遊びに来ている訳ではなく、ミーティングの講演を聞かせてる」という光景だ。「将来MITのランガー研に行くんだ」という次世代への継承の姿がそこにある。
岡野氏の息子も研究者の道を選んでおり、「似たようなことをされているじゃないですか」と言われることもある。研究への情熱が世代を超えて受け継がれている。
岡野氏は大学院研究科委員長時代に「アントレプレナー育成コース」を立ち上げた。「結構いい講義した」という自負もある。
現在は、全国医学部発ベンチャー協議会の理事長も務めており、若い人の起業精神を育てることの重要性は変わらず認識している。
現在は「殿町全体がエコシステム」になっており、知財セミナーなどのネットワークでの教育機会を活用している状況だ。
最盛期の岡野研究室は5億円以上の予算規模を誇った。教授、准教授、講師、助教という大学のファカルティに加え、「大きいプロジェクトで進めるると、特任教員」として特任准教授なども雇用。「ある程度シニアになり、マチュアしてきた人物には、独立したプロジェクトとして、PI的に回すように」していた。
しかし、65歳を過ぎると状況は一変する。「65歳以上の人は出してはいけないとは書かれていませんが、公的資金は、非常に取りにくい」。これは「年齢の差別が裏である」ことを示唆している。
そのため、資金源の多様化が必要になった。公的資金に加えて、企業との共同研究費、そして「寄付は非常に大事」だという。クラウドファンディングも試みている。アメリカのような「フィランソロピスト」の存在を羨望するが、「日本ではゼロではないですけどね、やはりもっと増えて欲しい」という。
岡野氏は日米のVCの違いも身をもって経験している。「アメリカのVCの投資額は、やはりワンオーダーかツーオーダー高い」。日本のVCの最大の問題は「額が少ない」ことだと断言する。
しかし、違いは金額だけではない。「その代わりに言ってることも、マイルストーンなども色々厳しい」。アメリカのVCには「技術者とか、医療関係者が多くいます」が、日本のVCは「証券や銀行出身の人がほとんど」という人材構成の違いもある。
特に印象的だったのは、エイトローズ(フィデリティの関連VC)のデューデリジェンスだ。「ハーバードの教授がわざわざ日本に来て」ディスカッションを行った。議論の内容は「薬の作用機構」「患者様に対してどういうデータが出てるか」「アーリーフェーズで少人数の人にいい結果が出たからと言って、非常に多くの人を相手にした時、有意差がつかないことが結構あるけど、そういうことが起きないようにするにはどういうことが必要ですか」といった本質的なものだった。
日本のVCについては「それなりのことは言うんですけど、ちょっと表面的」と評価。技術的な深い理解や、競合との差別化ポイント、成功確率などについて「結構細かいことを聞いてきます」というアメリカのVCとの差は大きい。
「IPOしたからってゴールではなくて、いわゆる途中のロードマップのようなもの」という岡野氏の認識は重要だ。日本では「IPOするまで」熱心なVCも、「結局売ってしまって、もうお世話になりました」となることが多い。
一方で、IPOのメリットも認識している。「それなりに信用が得られる」ことで「いい人材を獲得できたり」、資金調達にもメリットがある。しかし、時価総額100億円規模では、本格的な治験を複数走らせるには不十分という現実もある。
「世界の医薬品のマーケットシェアは45%ぐらいがアメリカ」「日本は昔10%ぐらいだったけど、今6%ぐらいしかない」という市場規模の差は決定的だ。アメリカは「日本の8倍ぐらいの大きさのマーケット」があり、「しかも薬価も高い」ため、「ワンオーダー高まる」収益が期待できる。
そのため、ケイファーマも「海外進出」を進めており、「海外で小さいながらもラボを持って、そこで知財、特許を出していく」戦略を取っている。ただし、これは「ちょっとマチュレーションした段階じゃないと資金的に難しい」という制約もある。
一方で、日本にも利点はある。2013年の薬機法改正により、再生医療等製品の条件付き早期承認制度が整備された。これにより「意外に日本で行った方が早い」場合もある。サンバイオがアメリカから日本に「逆輸入」したのも、この制度改正が背景にあった。
ただし、「条件付き早期承認と言いながら、かなり厳しいクライテリア」になっており、「昔よりはるかに難しい」。「その後すぐ否定されるものも」あるという現実を忘れてはならない。
岡野氏は創薬プロセスを詳細に説明する。「非常にアーリーな段階では、患者様の血液やあるいはその他の細胞からiPS細胞を作る」ことから始まる。次に「患者様で実際に障害される種類の細胞を作って、病態を再現」する。
この病態再現には「オルガノイドやゲノム編集などの高度な技術」を使用する。重要なのは「病態を定量化できるようにし」、それによって「新しい薬を評価しやすくなり」、「いろんな候補化合物の中から選んで」いくプロセスだ。
しかし、基礎研究から臨床への移行は簡単ではない。「実際に患者様に投与してどうなるかというのは、その病気のエキスパートの臨床の先生の意見を聞く」という段階が必要だ。
「もしこれで治験を行うなら、先生、治験担当医になっていただけますか」という交渉から始まり、「どういうプロセスで治験まで行くか」をPMDAと協議し、「プロトコールを書く」という作業が続く。「結構大変なんですよね」と岡野氏は言うが、「一歩一歩やっていかないといけない」と語る。
ケイファーマは「スタートアップながら」「エキスパートの人をどんどん雇用」している。「大手の製薬企業」と「対等にディスカッション」できる体制を整え、複数のパイプラインを管理している。「もうすぐフェーズ2に入れそうなもの」から開発初期段階のものまで、進捗度合いは様々だ。
岡野氏の役割も段階によって変わる。「最初の一歩は私がやらないといけない」が、「何度も足運ぶようになったら、もうさすがに会社の担当者に対応をお願いしています」という分業体制が確立されている。
岡野氏は新たな挑戦として、ゲノム編集関連技術の開発にも取り組んでいる。重要なのは「MITやUCバークレーの知財に全く引っかからない新しいものを作って」いることだ。これは単なる回避策ではなく、「それ自身が研究や、あるいは治療法のプラットフォームを提供できる」独自技術の開発を意味する。
「新しい事業の開発と、その商品化」という「2つの方法でビジネスになる」と考えており、インタビュー前日には「知財部とのミーティング」を行い、「とにかく出願しましょう」という結論に至った。
しかし、「ゲノム編集関連技術の知財とはこんなにも錯綜しているものなのか」という現実にも直面している。
再生医療の真の社会実装には、製造の工業化が不可欠だ。「4人の脊髄損傷の患者様に移植」するという規模から、「100人、1000人、1万人の細胞を用意する」規模への拡大は、製造工程が「全然違います」と言う。
「4人分の小さいシャーレを、1万枚撒けばいいかというと、なかなか難しい」。そのため「ロボット技術を活用して実施すること等にならざるを得ない」。さらに「何百リッターのバイオリアクターを使って」「人が絡まずに、自動化」することで「コストダウンにも繋がる」と語る。
品質管理にもAIの活用が不可欠だ。「かなりデータが蓄積してきている」状況で、「それを正しく入力して、これはいい細胞、これはダメな細胞だとわかると」、品質の均一化が可能になる。
さらに進んで「ダメな細胞だけレーザーを当てて殺し、いい細胞だけ増やしてくる」という精密な制御も構想している。これには「悪い細胞を見分けるための機械学習とAI」と「特定の細胞だけをレーザーで殺してしまう工学的な手法」の統合が必要だ。
岡野氏は「ボストンのケンダルスクエアにあるMIT関連ベンチャーののCellinoといった、AIベースのバイオマニュファクチャリングプラットフォーム作っている企業」に注目している。「可能だったら、そういった企業とも組みたい」という意欲を示す。
一方で日本の可能性も信じている。「日本人が持っている今の技術なら、工夫次第で実現できる余地があるはず」と考える。「今まで他分野で培ってきた、自動化のシステム作ってきたところ」で「バイオからは少し遠い」企業が、「バイオが得意なスタートアップ」と組んで参入すれば可能性はある。
「慶應病院で数名移植して、これで社会実装になったかというと、そんなことない」― 岡野氏の言葉は、真の社会実装の意味を問いかける。目標は「全国津々浦々の病院で、安全且つ確実に移植が出来る体制を整える」ことだ。
これは単なる技術移転の問題ではない。品質の均一化、コストの低減、流通システムの構築、医療従事者の教育など、多面的な課題を解決する必要がある。
最終的なビジョンは「世界中にディストリビュートすること、世界中のこういった難病の患者様に届ける」ことだ。これには「ロボティックシステム等のAIを用いた品質管理や、この辺りの最新技術」が「当然必須になってくる」。
「非常にクオリティの高いものを、非常に多くの人に対して作り出せることが可能になる」という技術的な実現可能性と、それを実際に患者に届けるシステムの構築、両方が必要なのだ。
岡野氏の究極の目標は「アンメットメディカルニーズをなんとか解消する」ことで「健康寿命を上げる」ことだ。「メジャーな病気にならないという事はとても大事だし、メジャーな病気になった時、それを早めに治しておくことも非常に大事」。
「例え大きな病を患っても、再び社会復帰できるまでしっかりと治していく」― これが実現すれば、その社会的インパクトは計り知れない。
「スター・サイエンティストと言われてどう感じますか」という質問に、岡野氏は明快に答えた。「私がスター・サイエンティストかどうかは分かりませんが、臨床医ではなくこういう道を選んだわけですから、スターぐらいにならないと思っています」。
この言葉には、自らの選択に対する責任と覚悟が込められている。患者を直接診療する道ではなく、研究を通じて多くの患者を救う道を選んだ以上、その分野で卓越した成果を出さなければならないという自負がある。
さらに印象的なのは、NHK「プロフェッショナル」の主題歌を引用した言葉だ。「自分の今やってることで自己満足してはダメですよね。その時点で良くても、10年後は恐らくダメですよ。もっといいもの作らないとダメ」。
この言葉は、65歳を過ぎても挑戦し続ける岡野氏の原動力を示している。現状に満足することなく、常により良いものを追求し続ける。それがプロフェッショナルの条件だという信念が貫かれている。
岡野氏の活動は、個人の研究成果を超えた意味を持つ。100人以上の博士、34人の教授を育て、複数のベンチャー企業を生み出し、日本の再生医療分野全体を牽引してきた。
全国医学部発ベンチャー協議会の理事長も務め、若い世代の起業家精神を育てることにも尽力している。たとえ”とんでもないやつばかり”だとしても、その中から次世代のイノベーターが生まれる可能性を信じている。
日本の再生医療の可能性 岡野氏の四半世紀にわたる挑戦は、日本の再生医療に確かな道筋を示している。基礎研究の深化、知財戦略の確立、ベンチャー企業の創出、人材育成、国際連携― これらすべての要素が有機的に結びつき、日本発の再生医療を世界に届ける基盤が整いつつある。
確かに課題は多い。日本のVCの規模の小ささ、65歳以降の研究資金獲得の困難さ、製造の工業化の遅れ、フィランソロピイストが希少なことなど、解決すべき問題は山積している。
しかし、岡野氏は諦めない。「日本人の技術があれば、やろうと思えばやれる」という確信を持ち、「日本のキラーコンテンツ」として再生医療を世界に送り出すビジョンを持ち続けている。
インタビューを通じて繰り返し語られたのは、患者への思いだった。「心理の追求」と「患者様に届ける」という二つの思いを同じくらい強く持つことが、真のイノベーションを生む。論文を書くだけでなく、それを知財化し、企業を作り、臨床試験を行い、承認を取得し、製造体制を整え、全国の病院に届ける― この長い道のりを歩み続ける原動力は、患者を救いたいという純粋な思いだ。
「研究は気合い」という言葉は、単なる精神論ではない。基礎研究から社会実装まで、20年、30年という長期戦を戦い抜く覚悟。失敗を恐れず挑戦し続ける勇気。既存の枠組みにとらわれない柔軟性。それより何より、患者のために最後まで諦めない執念。これらすべてが「気合い」という言葉に込められている。
岡野氏が育てた34人の教授、100人以上の博士、そして研究室から巣立っていった若い研究者たちは、それぞれの場所で新たな挑戦を続けている。彼らは岡野氏から学んだ「研究は気合い」の精神と、基礎研究と社会実装を両立させる姿勢を受け継いでいる。
さらに、岡野氏の息子も研究者の道を歩んでいる。MITのランガー研究室で見られるような、世代を超えた研究への情熱の継承が、日本でも始まっている。
2025年5月のインタビュー時点で、岡野氏は週2回ケイファーマに通い、新たなゲノム編集技術の特許出願を進め、製造の工業化に向けた国際連携を模索している。65歳を超えてなお、その活動は加速している。
サンバイオは条件付き早期承認を獲得し、ケイファーマは脊髄損傷の再生医療やALS治療薬の開発を進め、新たなベンチャーの種も芽吹き始めている。これらすべてが実を結ぶ時、日本の再生医療は真の意味で世界をリードする存在となるだろう。
岡野栄之教授の物語は、一人の研究者の成功物語ではない。それは、日本の再生医療が世界に向けて発信する希望のメッセージだ。脊髄損傷で車椅子生活を余儀なくされた人が再び歩けるようになる。ALSで失われていく身体機能が回復する。アルツハイマー病で失われた記憶と人格が保たれる。
これらは夢物語ではない。岡野氏とその仲間たちが、一歩一歩実現に向けて歩んでいる現実だ。「全国津々浦々、どんな病院でも」再生医療が受けられる日。それは確実に近づいている。
「自分のやってることで自己満足してはダメ」「もっといいもの作らなければダメ」― この言葉を胸に、岡野氏は今日も研究室とケイファーマを往復する。その歩みは止まることなく、日本の再生医療を、そして世界の医療を、より良い未来へと導いていく。
研究は気合い。この単純な言葉に込められた深い哲学と実践が、難病に苦しむ世界中の患者に希望の光を届ける日は、そう遠くないはずだ。