寺久保 拓摩
- Takuma Terakubo -
株式会社アンカバードファンド 代表取締役
刑部 芳則
- Yoshinori Osakabe -
日本大学商学部教授
入山 章栄
- Akie Iriyama -
浜松町Innovation Culture Cafe マスター
経営学者
田ケ原 恵美
- Emi Tagahara -
浜松町Innovation Culture Cafe 見習い店員
目次
常連さんに株式会社アンカバードファンド代表取締役・寺久保拓摩さん、お客様に日本大学商学部教授・刑部芳則さんを迎え、「アフリカ投資×勲章」をテーマにディスカッション。アフリカの経済成長と消費文化、日本の近代化を支えた勲章制度、社会的ステータスとファッションの関係について、経営学者・入山章栄さんが迫ります。

いろんな事を研究していますが、大きなテーマは二つあります。一つは、学校の制服の歴史です。学校の制服の歴史を遡ると、もともとは着物を着ていました。
戦前になると、男子は詰襟に五つボタンの学ラン、女子はセーラー服を着るようになります。ところが、今では当時の制服姿を見る機会はほとんどありません。なぜ、こうした制服に変わっていったのか、という点を研究しています。


































ブレザーやセーラー服は、戦前ではエリートの象徴で、誰しもが通えるわけではなかったんですよね。戦前の旧制中学校や高等女学校はエリートで、ある程度お金を持っている人たちが行っていました。
そうすると、社会の中から非常にエリートという風に見られるわけです。ところが終戦後、我々が受けた「6・3・3・4制」になった際、中学は義務教育で誰でも行けるようになり、高等学校も入りやすくなりました。詰襟の学ランやセーラー服は、必ずしもエリートの象徴ではなくなってきてしまったわけなんです。
着ている人の立場からすると、「なぜこんな、戦時中の軍服に似たものを着なければいけないんだ」と、制服を正しく着ない生徒たちも結構出てくるようになって、ブレザーに変わってくるようになりました。












































































































































たとえば、私自身が研究していて、一つ大きく変わった定説があります。今でもインターネットなどで調べると都市伝説のように出てきますが、「なぜ日本人が洋服を着るようになったのか」という話です。
明治、大正の頃はみんな着物を着ていたわけです。それが、大正12年(1923年)9月1日に起きた関東大震災をきっかけに洋服を着るようになったと言われています。関東大震災の時、着物を着ていて逃げ遅れ、火事に巻き込まれてしまった人が大勢いた事を教訓に、洋服を着るようになったという説です。
しかし、私はそれよりも前に、大正8年(1919年)から「生活改善運動」が始まった事に注目しています。特に文部省(現:文部科学省)が推進し、衣食住全般に関わる運動なのですが、その中に「服装改善運動」がありました。
その取り組みを文部省が推進した事で、まずは学校の制服から洋装化が始まり、やがて戦争を挟んで、昭和30年代の高度経済成長につながっていくわけです。そこから衣食住の様式が、一般社会や家庭の中でも、どんどん変わっていく形になっていきます。




































































文明開化が来て、日本の価値観だけでやっていけるわけではなく、国際的に付き合っていかなければいけないという時代になってきた中で、洋服が必要になってくるんです。
ただ、今と比べて値段が非常に高く、着心地も非常に悪い。着ていると健康にも被害が及ぶ問題なども出てきて、そういう問題をどう解決したらいいのかという中で、和装を推進する派と洋装を推進する派が、明治からずっと平行線のような形で議論していました。
















































































































































































































まだ一般的に「目が悪い」という概念が無くて、目が悪い事が認識されていないんですよね。今、政府が学校や企業の中で視力検査を行って、目が悪い事への認識を広げて、メガネを作る動きが出てきています。
他では、化粧品ブランドがすごく伸びています。「メラニンリッチスキン」と言われる市場なのですが、今までアフリカの人たちの肌に合わせた化粧品の開発は、あまりされていませんでした。
欧米の商品がそのまま流通してくるだけだったのですが、購買力が上がってきて、それなりに大きな市場となってきたので、現地の人からしっかりデータを取って、現地に合わせた製品開発をするスタートアップがかなり伸びてきています。




































































それこそ今、糖尿病なども都市部では大きな問題になってきています。最近だと、都市の中にスポーツジムがたくさん出来ていたり、健康に気を使ったりする動きも出てきています。
元々は健康なイメージがあったのですが、既に生活習慣病のようなものも現実的な課題になってきているのはありますね。




































私はあると思います。令和の時代だと、「昭和の時代はこうだったから、今の方が良いんだ」という人もいると思うんですけど、私は必ずしもそうではないと思っています。その時代、その時代の人たちの価値観というのは、自分たちは正しいと思って判断しているんですよね。
でも、振り返ってみると、もちろんそれは間違いだった事もあるかもしれません。確かに今は、生活がすごく便利になった一方で、昔はちょっと不便かもしれないけど、昔ならではの良さというのはいろいろあったと思います。


































それこそ都市の生活と、郊外や田舎の方の生活とのギャップがどんどん広がっていく光景を目にしています。農村だと、まだまだ自給自足的に野菜を作って生活している人もいれば、一方で都市では、先ほど述べたような生活もあります。
その格差がどんどん開いていく事が今後どうなっていくのかというのは、すごく感じる部分ではありますね。





明治から大正にかけて、何かが発展する原動力になっているものは変わってきているのでしょうか?経済的な意味でもそうですし、洋服だったら洋装になっていく過程で何がきっかけになっているのか。
たとえば貧困なのか、あるいは「おしゃれになりたい」という欲求なのか。そうした欲求がどう変わっているのかに興味があります。
流行やファッションというのは、もともと「流行」という意味で、それがある意味、洋服や服装という形になっているじゃないですか。元々のファッションは和服ですよね。
ただ、その和服にしても、質の違いや色、模様などは、年によって変わっていくわけです。やがて洋服になっていくわけですが、メディアによる影響が一番大きいと思います。
「今年はこういうものですよ」とか、「こういうのがいいですね」といった情報を、読み手や見た人が受け取って、憧れを抱く。自分も同じようなものを着たい、買いたいという欲求はあると思うんですよね。


ナイジェリアでは今、女性が給料の半分をファッションと美容に毎月投資しています。12歳くらいのナイジェリアの女性に「これ、本当なの?」と聞いたら、みんな「本当だよ」と言っていました。
背景としては、毎週末にパーティーや結婚式があったり、着飾る事が社会的なステータスでもあったりするのので、そういうところにお金を投資していく事がすごくモチベーションになっている話だったので、逆に日本の歴史では、その当時どうだったのかというのはすごく気になりました。









































































もう明治時代からですね。だから、学校が校則を作って、「華美なものはいけない」とか、「こういうデザインのものは着てはいけない」とか、一定の決まりができて、それがやがて制服になって、制限がかけられる事がありました。
若い女性の中である程度変わるとなると、そういった競争が始まるし、職業婦人は一定程度の収入が得られます。そうすると今度は、着物から洋服へと変わって、洋服の中でも良いものを買ったり、ブランドものを選んだり、あるいは外国の化粧品を使ってみたりする事が、一つのステータスになって、働いていくという事なんですね。


































士農工商による差はあって、花魁はちょっと別格というか、華やかさで客引きをしているような感じもありました。武士の家はある程度収入があるので、それなりに良いものが着られるというのはあります。
農工商民といっても、農民の場合は貧富の格差が激しいので、みんながみんな着られるわけではありません。










































































































































































勲章は元々、天皇との距離を測るために作られています。政治的な話になりますが、元々は士農工商で、明治政府は朝廷と幕府があって、幕府が倒れて朝廷による新政府ができましたよね。
その時に武家と公家が合体して、新しい政治体制ができるわけですが、武家には一番上に殿様である「諸侯」がいて、新政府の中に入っていきます。しかし、実際に政治を行っていたのは、大久保利通や木戸孝允といった、いわば殿様の家来たちなんですね。
そうすると、自分たちが政治を動かそうと思っても、公家や諸侯に反対されるとうまくいきません。公家や諸侯は天皇から高い位をもらっている一方で、自分たちは位が低く、位を持っていない人もいる。そうすると、政治的な発言力も弱いんです。
その立場をどう逆転していくかという時に、勲章という制度が出てくるんですね。




































































今は無くなってしまいましたが、戦前には官僚の中に「勅任官」「奏任官」「判任官」がいました。勅任官は、天皇が任命する一番上の官僚です。奏任官は大臣が天皇に奏上して任命する官僚、判任官は大臣が各省で自らの判断によって任命できる下級官吏です。
この勅任官、奏任官、判任官には、それぞれ「官等」があります。その官等に応じて、公務員として何年勤務したかによって、勲一等から勲八等まで、受けられる勲章が定められています。当然、勅任官になった人間の方が、高い勲章をもらう事ができます。




































































元々、日本よりもヨーロッパの王室の方が早く、王室制度のある国は基本的に勲章制度もありました。加えて、王室との外交という観点から、日本も勲章を作ったわけです。
国内では、身分を逆転していこうとする人たちの動きがあり、対外的には外交上の必要性もあって、その両方があって日本の勲章制度はできています。

































