2026.06.24

地域発フードテック最前線 アカデミック記事

研究分野は「食文化」 ── 慶應先端研初代所長が、山形・鶴岡をイノベーション都市へ

研究分野は「食文化」 ── 慶應先端研初代所長が、山形・鶴岡をイノベーション都市へ
冨田 勝

冨田 勝

- とみた まさる -

慶應義塾大学名誉教授/鶴岡食文化創造研究所所長

1957年東京生まれ。慶應義塾大学工学部卒業後、米カーネギーメロン大学に留学し、AIを専攻して修士課程(1983年)および博士課程(1985年)を修了。その後、カーネギーメロン大学にて助手、助教授、准教授を歴任し、同大学自動翻訳研究所副所長を務めた。
1990年、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス開設とともに帰国。環境情報学部助教授、教授、学部長を歴任するとともに、生命科学分野へと研究・活動領域を広げ、2001年に慶應義塾大学先端生命科学研究所(山形県鶴岡市)を開設。22年間にわたり所長を務めた。
その間、「ヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ株式会社」を創業し、2013年に東証マザーズへ上場。以後、「Spiber社」「サリバテック社」「メタジェン社」など、計8社の慶應鶴岡発ベンチャーの創業を支援し、現在は(一社)鶴岡サイエンスパーク代表理事を務める。
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冨田勝氏は、人工知能と生命科学を横断する科学者であり、山形・鶴岡からSpiberやメタジェンなど、数々のバイオスタートアップを輩出してきたイノベーターだ。その冨田氏が新たに立ち上げた「鶴岡食文化創造研究所(TGI)」で掲げたのは、成分分析で味を最適化する「普通の」食科学ではなく、誰と食べるか、どんな文脈で食べるかという「文化」まで科学の土俵に乗せる試みだった。出羽三山の修験道が”生まれ変わり”を説いてきた鶴岡の地で、「普通は0点」と言い切る科学者が効率と数字に支配された現代の食と科学に対して提示する解とはいったい何か。冨田氏の哲学と今後の展望について話を伺った。

山形県鶴岡市。出羽三山に見守られたこの場所は、ユネスコ食文化創造都市としての顔を持つ一方で、世界最先端のバイオサイエンス研究拠点「慶應義塾大学先端生命科学研究所(IAB)」を擁する。

論理と感性。未来と伝統。一見相反する要素が交錯するこの地で、新たなプロジェクトが始動した。「鶴岡食文化創造研究所(TGI)」。

所長に就任したのは、IABを率い、メタボローム解析の世界的権威として知られる冨田勝だ。なぜ今、日本を代表するトップサイエンティストが「食文化」や「精神性」に挑むのか。そこには、効率とKPIに支配された現代社会への強烈なアンチテーゼがあった。

Part 1:鶴岡で描く「食の未来」──なぜ科学だけではだめなのか

「普通は0点なんですよ」

インタビューの冒頭、冨田は開口一番にそう言い放った。TGI(鶴岡食文化創造研究所)は、内閣府の支援を受け、鶴岡市、山形大学、慶應義塾大学が連携して立ち上げた組織だ。この地には既に、成分分析によって味を数値化するメタボローム解析の技術がある。ならば、それをさらに高度化しより美味しい食品を開発するのが「研究所」の役割だと誰もが思うだろう。

だが、冨田は首を横に振る。「フードサイエンスの研究所なんて世界中にあります。成分を調べて、味を最適化する。それは今までもやってきたし、いわば『普通』のこと。僕はずっと学生にも言ってきたんです。普通は0点だと。冨田がやるからには、普通じゃないことをやらなきゃ意味がない」

彼がTGIで掲げたテーマは、「科学と文化の融合」だ。

食という行為は、極めて複雑なレイヤーで成り立っている。舌で感じる味覚、鼻で感じる嗅覚といった生理学的データ(理系領域)に加え、誰と食べるか、どんな器か、そしてどんな文脈で食べるかという物語(文系領域)が決定的な役割を果たす。

冨田は、アメリカ生活での「ターキー(七面鳥)」の体験を例に挙げる。「感謝祭(サンクスギビング)になると、アメリカ中の家族が集まってターキーを食べる。でもね、アメリカ人自身も『ターキーは美味しくない』って言うんですよ(笑)。パサパサしてるから。それでも必ず食べる。それは『文化』だからです」

もし、味覚センサーの数値だけで判断すれば、ターキーは「最適化されていない食品」として淘汰されるかもしれない。しかし、そこには家族の絆や歴史といった、数値化できない巨大な価値が存在する。日本の「おせち料理」も同様だ。正月に食べるからこそ意味があり、ゴールデンウィークに食べても同じ感動は生まれない。

「今の食品科学は、五感で取れるデータまでは扱えます。でも、なぜそれが人の心を動かすのかという『物語』は、サイエンスの土俵に乗せてこなかった。水と油のように分けられてきた『理系の食科学』と『文系の食文化』を、本気で融合させる。それがTGIの狙いです」

具体的に何をするのか。冨田が打った手は実にユニークだ。大手食品メーカーの研究者や役員、総勢約40名ほどを鶴岡に招集。彼らに課したのは、実験ではなく「思考」だった。

「普段、成分データやマーケティングと格闘している彼らに、『自社の製品や技術を、文化的・歴史的視点で見たらどうなるか』『日本の食ブランドにどう貢献できるか』を徹底的に考えてもらう。最初はみんな戸惑いますよ。でも、自分の研究に数行でいいから『文化の考察』を入れてみる。そこから、ただの商品開発ではない、世界に通用する『意味』を持った食のイノベーションが生まれるはずなんです」

Part 2:Science meets Spiritual──「生きる意味」を問う科学

なぜ冨田は、実証主義の極致であるサイエンスの世界から、あえて曖昧な「文化」や「精神性」へと領域を広げたのか。その背景には、鶴岡という土地が持つ磁場と、科学者としての根源的な問いがあった。

「元々僕はコンピュータサイエンスやAI、分子生物学という、再現性と客観性がすべての世界に生きてきました。でも、鶴岡には出羽三山がある。『精神文化の発祥の地』と言われ、江戸時代から庶民がわざわざ歩いて旅をしてきた場所です」

羽黒山は「現在」、月山は「過去(前世の世界)」、湯殿山は「未来(生まれ変わり)」を表す。人々は山を巡ることで擬似的な死と再生を体験し、明日への活力を得てきた。

「理系の科学者目線で見れば、『はあ?』って話じゃないですか(笑)。生まれ変わりなんて非科学的だと。でも考えてみたんです。昔の人は今みたいに飛行機で来てレンタカーで行けるわけじゃない。江戸から1週間かけて来て、1週間歩いて、1週間かけて帰る。ただの洒落や観光でそんなリスクは冒せません」

冨田は、そこに人類共通の永遠の問いを見出す。「人間は必ず死ぬ。死んだら意識も記憶もゼロになる。じゃあ、ゼロから生まれてゼロに帰るまでの数十年、一体何のために生きるのか。これは人類が物心ついた時からの永遠のクエスチョンなんです。昔の人は自然の中にその答えを求め、山に入った。現代人は忙しすぎて考えるのをやめてしまったけれど、これはAIには解けない人間だけの問いです」

TGIの活動には、この「精神性」へのリスペクトが組み込まれている。食は、大地の恵みを体に取り込み命をつなぐ行為だ。そこには必然的に、自然への畏敬や感謝といったスピリチュアルな要素が含まれる。一方で、現代のビジネスは「KPI(重要業績評価指標)」や「5年後の数値目標」に支配されている。冨田は、それが日本のイノベーションを阻害していると指摘する。

「サイエンスの本質は『謎解き』です。面白いから知りたい、やりたいからやる。アポロ計画だって、月の石を持って帰ることに直接的な実利はなかったけれど、人類を熱狂させた。それが今や基礎研究ですら『5年後に何の役に立つか』を書かされる。これでは『研究』ではなく『開発』です」

TGIの合宿では、夜な夜な企業のトップや研究者と酒を酌み交わし、「ジンカタ」と呼ばれる対話を行うという。「会社の利益とか目標とか一旦忘れて、『お前は何のために生きてるんだ』『何を残したいんだ』と語り合う。青臭いと言われるかもしれない。でも、この『腹落ち』がないままただ数値目標を追いかけても、人の心を動かすものは作れないんです」

経営のトップは頭が柔らかい、と冨田は言う。問題はその下の「真面目な人たち」だ。目標設定、KPI、数字での評価。優等生的なマネジメントが、イノベーションを阻害している。

「トップはみんな言うんですよ。うちの研究者は真面目すぎるって。でも真面目な上司も真面目だから、目標設定しなきゃ、KPI出さなきゃ、となる」

鶴岡には、その空気を変える力がある。精神文化の発祥の地。人生を語っても違和感がない土地柄。

「鶴岡の居酒屋で話をしていると、東京とは少し雰囲気が違う気がするんですよね」

合理性の外側にある「無駄」や「思い」のようなもの。それを取り戻すことこそが次世代の科学には必要なのだ。

Part 3:鶴岡発スタートアップの現在地──起業家の覚悟

冨田率いる慶應先端研(IAB)は、これまでにSpiber、ヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ(HMT)、メタジェンなど、数々の有力スタートアップを輩出してきた。人口12万人の地方都市・鶴岡から、なぜこれほど多くのベンチャーが生まれるのか。多くの自治体がその「秘訣」を知りたがるが、冨田の答えはシンプルかつ本質的だ。

「ベンチャーの数やIPOの件数を目標にしている時点でダメなんです」

ここでも冨田は「数」の呪縛を否定する。

「国がベンチャー創出と声を大にして言ってるのは、最終的にはソニーやホンダみたいな会社ができて、国を支える産業を背負ってもらうためでしょう。数じゃないんです」

本当に社員1万人規模の大企業になるには30年かかる。トヨタは60年かかった。評価に時間がかかるから、数で測ろうとする。すると優等生は”数字合わせ”を始める。

「どうやったら数が増えるか考え始めると、本質を見失う」

では、鶴岡で何が起きているのか。彼が評価するのは、起業家の「腹の決まり方」だ。例えば、人工タンパク質素材を開発するSpiberの関山和秀代表。彼は「石油由来の製品を枯渇性資源ではないものに置き換える」という壮大なミッションを掲げている。

「関山くんに聞いたんですよ。なぜ起業したのかって。石油が枯渇したらナイロンもポリエステルも作れなくなる。誰かがそれに代わる素材を作らなきゃいけない。俺たちならできるかもしれない、って。彼にとっては利益を上げることは目的じゃなく、ミッションを達成するための『手段』なんです。だから、儲かるからやる、儲からないからやめるという判断軸がない。それが彼の生き様だから」

IPOして会社を売る起業家もいる。それは法律違反じゃない。ただ、鶴岡にはそういう人間は一人もいない。「結局金を増やすのが目的だったね、ってなると、人間的な魅力がない。尊敬されない」

冨田は、今の日本に足りないのはこの「狂気」に近い熱量だと語る。テストで高得点を取るために最適化された「優等生」たちは、失敗を恐れ、舗装された道路を歩きたがる。しかし、イノベーションは常に道なき道から生まれる。

「大企業から鶴岡に来た出向者が『何をやればいいですか?』と聞いてくる。僕は『それを考えるのが最初の仕事だ』と返します。25年前、僕がこの研究所の所長になった時もそう言われましたから(笑)」

かつての鶴岡市長は、財政難の中で「今の市民にはメリットはない。でも未来のために種を撒く」と腹を括り、IABの誘致を決断した。その「損得を超えた覚悟」が、25年経った今、バイオベンチャーの群生という果実となって現れている。

TGIもまた、即座に利益を生むプロジェクトではないかもしれない。しかし、企業のトップたちのマインドセットを変え、「何を残したい」という問いを与えることは、数十年後の日本の産業構造を変える種まきになる。

終章:舗装道路を歩き続けるのか

「やりたいものとか、熱中できるものがないんです。どうしたらいいですか」

冨田は、講演後に若い人からよく聞かれる。

「それは運なんです」

関山和秀がクモの糸に出会ったのは運だ。一生懸命探しても、1年以内に見つかるかどうかは分からない。永久に見つからないかもしれない。

「でも、最初から諦めたら、永久に見つからない」

インタビューの最後、冨田は「舗装道路」の比喩で締めくくった。

「舗装された道路を歩くのは悪いことじゃない。でも、どこに繋がっているかも考えずに、ただみんなが歩いているからという理由でそこを行くのは、悲しい人生だと思う。泥だらけになっても、自分の行きたい道を歩く。そういう人間を応援したい」

鶴岡食文化創造研究所。その名称には「研究所」とあるが、ここは単にデータを分析する場所ではない。ここは、現代人が「科学」というランタンと、「文化」という地図を手に、再び「生きる意味」を探求するための、現代の出羽三山なのかもしれない。

雪深い鶴岡の地で、冨田は楽しげに、そして鋭く、私たちに問いかけ続けている。