最強生物クマムシの研究者が「日本酒のゲノム解析」に挑む理由とは?
荒川 和晴

荒川 和晴

- あらかわ かずはる -

慶應義塾大学先端生命科学研究所所長、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科教授、環境情報学部教授。

2006年慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修了。博士(政策・メディア)。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科特別研究助教、同特任講師、同特任准教授、環境情報学部准教授などを経て、2022 年より現職。専門はシステム生物学、バイオインフォマティクス。
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荒川和晴氏は、幼少期からの謎であった「生命とは何か」という鍵を探るために、地球最強生物といわれるクマムシのゲノム解析を世界に先駆けて確立したバイオインフォマティクスのトップランナーである。クマムシは体内の水分を2%まで減らしても死なず、水を与えれば復活する「乾眠」という性質がある。荒川氏のチームは乾眠に関わる約1,000個の遺伝子を特定し、放射線からDNAを守るタンパク質を発見した。また、クモ糸研究では慶應先端研発のベンチャーSpiber社と共同で約100種のクモの糸を全解析し、「クモの糸のタンパク質は2種類」という教科書の定説を覆し、10以上のタンパク質を発見した。現在は鶴岡食文化創造研究所(TGI)所長として、日本酒の成分とゲノム解析を組み合わせた世界初の「味のゲノム解析による自動記述」を目指すなど、自らの研究を食の未来に接続する新たな取り組みに挑戦しようとしている。

山形県鶴岡市。出羽三山の修験道が息づく精神文化の聖地であり、ユネスコ「食文化創造都市」としても知られるこの地には、もう一つの顔がある。水田の広がる庄内平野の只中に、突如として現れるキャンパス。それが慶應義塾大学先端生命科学研究所(IAB)だ。ここには世界最先端のバイオテクノロジーが集積し、Spiberをはじめ、数々のディープテック・ベンチャーが生まれている。

なぜ地方都市の、しかも精神文化が色濃いこの場所で、ライフサイエンスのイノベーションが爆発的に起きているのか。その鍵を握る人物の一人が、同研究所の所長であり、新たに設立された「鶴岡食文化創造研究所(TGI)」の中核を担う、荒川和晴だ。

彼は、「最強生物」と呼ばれるクマムシの研究で世界をリードし、クモの糸の物性を遺伝子から予測し、さらには日本酒の味わいをゲノム解析でデータ化しようとしている。一見バラバラに見えるこれらの探求は、彼の中で一つの問いに収斂する。

「生命とは何か。そして、その多様性をどう未来へ実装するか」

科学(Science)と精神文化(Spiritual)が交錯するこの地で、荒川が描く「食と生命の未来図」を追った。

Part1:「生き物をプログラミングで作りたかった」—クマムシ研究の第一人者の原点

荒川氏の学問的な原点は、意外にも哲学にある。

「子どものときから、生きてるとは何かっていうことにずっと興味がありました。哲学や宗教で考えられてきた問題ですよね。でも僕はプログラミングも得意だったので、生き物をコンピュータで作ることができたら面白いだろうなと思って」

慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)に進学し、冨田勝研究室の門を叩いた。そこでは「E-Cell」と呼ばれる細胞シミュレーションプロジェクトが進行中だった。ゲノム情報を入力すると、ソフトウェアが自動的に遺伝子や機能を見つけ出し、コンピュータ上で「細胞」が動き出す、世界初の試みだった。

だが、やればやるほど壁にぶつかった。

「どこまでいったら『生き物ができた』と言えるのか。僕ら科学者はまだ生き物を定義できないんです。生物学って、生き物を定義できないんですよ」

それっぽいものはできる。でも、本当に「生きている」のかどうかは言えない。シミュレーションでは生命の本質に迫れない気がしてきた。

「結局、生物学でやっていることって、生き物をすりつぶして死ぬ瞬間を見たり、死んだ後に手に入る物質を測定したりすることなんです。壊れる過程を見ても、あまり理解は進まない」

生と死を行き来できる生き物がいれば、その謎に迫れる。乾いて死んだように見えて、また生き返る、そんな生き物はいないだろうか。

テレビを見て「これだ」と思った

そんな時にテレビ番組『トリビアの泉』で出会ったのが、クマムシだった。

「乾燥すると死んだようになり、水で生き返る」真空も、高線量の放射線も耐え抜く、この体長1ミリにも満たない微小生物こそ、彼が求めていた「生命のモデル」だった。

「『これだ』と思いました。それまでクマムシのことなんて全然知らなかったし、当時はコンピュータ上の解析が中心で、実験なんてほとんどやっていなかった。でも、これはやるしかないと」

普通、「生きている」か「死んでいる」かの二択で考える。でもクマムシは、その中間、つまり『第三の状態』を行き来できる。

「生と死という二元論が、『乾眠』という状態によって一気に価値観が開かれるわけです」

シミュレーションの研究を放り出し、クマムシの研究をゼロから始めた。

飼い方すら分からなかった

問題は、当時クマムシを飼える人が世界にほとんどいなかったことだ。

「日本にクマムシ研究者がいるか探したら、2、3人はいました。でも、彼らは分類学をやっていたんです。どんな種類がいるか記載する仕事ですね。乾燥して生き返る『乾眠』を研究している人はいなかったし、そもそも飼育できなければ研究もできない」

野外での採集は比較的簡単だ。街中のコケからでも見つけることができる。だが、実験室内で安定して増やすのは極めて難しい。餌となる藻類の培養、適切な湿度管理、繁殖サイクルの制御、すべてをゼロから確立する必要があった。

さらに大きな壁があった。1匹のクマムシから取れるDNAは50ピコグラム。1グラムの200億分の1だ。当時の技術では、ゲノム解析に最低1ナノグラム(1グラムの10億分の1)が必要だった。

「10万匹集めないと1回の実験ができなかったんです。数匹飼うのと10万匹集めるのでは、スケールがまったく違う」

微量でも解析できる技術を自分たちで開発した。1グラムから読めていたゲノム解析を、50ピコグラムでも読めるようにした。感度を1桁半ほど上げたことになる。

この技術は、クマムシだけの話ではない。

「地球上の生き物の多様性って、実はちっちゃい生き物にあるんです。哺乳類は何百種類しかいないけど、昆虫や微小生物は何百万といる。野外で1匹捕まえた個体からゲノムを読むには、微量ゲノム解析の技術が不可欠なんです」

💡 解説:微量ゲノム解析とは?

ゲノム解析には従来、最低1ナノグラム程度のDNAが必要だったが、荒川研究室はサンプル調製法と解析ソフトウェアを改良し、従来の20分の1以下の微量サンプルからでもゲノム配列を決定できる技術を確立した。これにより、クマムシ1匹分(約50ピコグラム)のような極微量DNAでも解析が可能になった。

水分2%で止まる生命

クマムシの最大の特徴は「乾眠」と呼ばれる能力にある。

通常の生物は、体内の水分が一定以下になると死んでしまう。人間であれば、体重の10%程度の水分を失うだけで生命の危機に瀕する。しかしクマムシは、体内の水分を2%以下にまで減らしても「死なない」のだ。

「乾いた状態のクマムシは、化学反応がほぼ完全に止まっています。代謝がゼロ。でも死んでいるわけではない」

乾眠状態のクマムシは「樽(タル)型」と呼ばれる形態をとる。体を丸め、足を引っ込め、まるで小さな樽のような姿になる。外部からの刺激にはまったく反応しない。顕微鏡で観察しても、生きているのか死んでいるのか判別できない。

しかし、水を与えると数分から数時間で「復活」する。足が伸び、体が膨らみ、再び這い回り始める。

「これって、すごく哲学的な問題なんです。乾眠状態のクマムシは『生きている』と言えるのか?代謝がゼロなら、それは『モノ』ではないのか?」

種によって違う「乾く速度」

研究を進める中で、荒川氏は興味深い事実を発見した。クマムシの乾眠には、種によって大きな違いがある。

「札幌で発見されたヨコヅナクマムシという種は、乾燥を始めるとものすごく速く乾眠に入ります。数時間で完全に乾く。一方、イギリスの沼地で見つかった種は、24時間かけてゆっくり乾燥させないと死んでしまいます」

この違いは何を意味するのか。荒川は両者のゲノムを比較解析することで、乾眠を可能にする遺伝子群を特定しようとした。

「速く乾ける種と遅くしか乾けない種。その遺伝子の違いを調べれば、乾眠に必要な遺伝子が何かがわかります」

この比較ゲノム解析のアプローチは、大きな成果をもたらした。

生きているときの方が放射線に強い

クマムシは宇宙空間に10日間さらしても生き残る。真空でも、極低温でも、放射線でも。人間の半致死量が約4グレイ。クマムシは4,000グレイ——つまり1,000倍の放射線を浴びても生き延びる。

ただし、生きたまま宇宙に放り出すわけではない。「乾眠」という、体内の水分を2%以下まで減らした状態で送り出す。

「生きていないから、それ以上死なないんです。椅子を宇宙空間に放り出しても、真空だろうが放射線だろうが、そう簡単には壊れませんよね。同じことです」

興味深いのはここからだ。

「普通、乾眠状態の方が強いと思うじゃないですか。ところがクマムシは活動している時の方が放射線に強いんです。意外でしょう?」

水があり、化学反応が起きている状態の方がダメージに強い。何らかの修復機構が働いているとしか考えられない。

荒川氏のチームは、クマムシだけが持ち、細胞の核の中で大量に発現しているタンパク質を見つけた。このタンパク質をたった1つ、ヒトの細胞に導入してみた。

「人間の細胞が、放射線に対して耐性を持つようになったんです」

放射線のダメージを抑制することから、「Dsup(ダメージサプレッサー)」と名付けられた。DNAの周りにまとわりつくように結合して、放射線によるダメージを物理的にブロックする。

「活動状態のクマムシは、Dsupのようなタンパク質を常にDNAに巻きつけて『守り』を固めています。一方、乾眠状態ではタンパク質の機能も停止しているので、実はDNAが傷つきやすい」

クマムシの耐性メカニズムは単純な「シャットダウン」ではなく、積極的な「防御システム」だったのだ。2025年にはMITの研究チームが、Dsupをマウスの組織に発現させることで放射線による組織損傷を大幅に軽減できることを実証している。がん治療における放射線療法の副作用軽減や、宇宙空間での人体保護など、応用の可能性が広がっている。

荒川研究室で見せていただいたクマムシのぬいぐるみ。クマムシを身近に知ってもらうために、ぬいぐるみなどのグッズの制作も行っている。

細胞を守る「ゲル」の正体

放射線耐性に続き、荒川氏は乾燥耐性のメカニズムにも迫っている。その鍵を握るのが、CAHS(カース)と呼ばれるタンパク質群だ。

細胞の中は水でできている。細胞膜は脂質の二重層で、水と反発する部分と水になじむ部分が向かい合って構造を作る。水がなくなれば、この構造は維持できない。あらゆる細胞内のコンパートメントが崩壊するはずだ。

「クマムシはそれを防ぐ仕組みを持っているんです。CAHSというタンパク質は、普段は水に溶けてふわふわ浮いているだけ。でも、水がなくなってくると、繊維を作り始めてゲル化するんです」

スポンジのような構造が細胞内にできあがり、膜同士が癒着するのを防ぐ。水が戻れば繊維は解けて、またふわふわと漂う。可逆的に、細胞の構造を守っている。

「しかも、このゲル化は可逆的です。水を加えるとゲルが溶けて、元の液体状態に戻る。だから復活できるんです」

1,000個の遺伝子が協奏する

荒川研究室では乾眠に関与する遺伝子の網羅的な解析を進めている。現時点で、約1,000個の遺伝子が乾眠に関わっていることが判明している。

「Dsupだけ、CAHSだけでは不十分なんです。1,000近い遺伝子が協調して働いて、初めて乾眠が成功する」

さらに興味深いのは、これらの遺伝子の発現が細胞の種類によって異なることだ。

「シングルセル解析を使うと、クマムシの体を構成する一つ一つの細胞で、どの遺伝子が働いているかがわかります。すると、神経細胞と筋肉細胞と腸の細胞では、使っている乾眠遺伝子のセットが違うことがわかってきました」

乾眠は「全身一律」のプロセスではない。各組織が独自の戦略で乾燥に対処している。クマムシの小さな体の中で、1,000の遺伝子が組織ごとに異なるオーケストラを奏でている。

教科書を塗り替えた「クモ糸」研究

クマムシと並行してもう一つの研究がある。クモ糸だ。

「遺伝子の配列がどうやって物質になるのか。DNAという情報がどうやって実行されるのか。それを理解したいんです」

ゲノムを「解読した」とよく言う。だが、実際には文字を読み取っているだけで、意味を理解しているわけではない。

「僕らが今やっているゲノム解析って、言ってみれば写経みたいなものです。お経を書き写しているけど、お経の意味を理解しているかというと、していない」

酵素やタンパク質の性質を予測しようとすると、複雑な折りたたみ構造、様々な分子との相互作用が絡んでくる。難易度が高すぎる。

クモ糸は違う。体の外に出てきて、水に溶けず、引っ張った時に強いか弱いかという一次元の物性だ。

「配列から物性を完全に予測するのは、クモ糸なら可能だと思ったんです」

2014年から、鶴岡で創業したSpiber社と共同研究を始めた。Spiberは2007年に慶應先端研から生まれたバイオベンチャーで、創業者の関山和秀は冨田勝研究室の出身、荒川氏の後輩にあたる。

「彼らも事業を拡大する上で、クモ糸をきちんと設計できるようになりたいと言っていた。僕もまさにそれをやりたかったので、一緒にやりましょうと」

世界中から約100種のクモを集め、すべての糸の遺伝子配列を決定した。同時に、糸を引っ張って物性も測定した。配列と物性の対応データベースを作った。

その過程で、教科書の記述が間違っていることがわかった。

「世界中の教科書に、クモ糸はMaSp1とMaSp2という2種類のタンパク質でできていると書いてあったんです。でも、僕らが全部解析したら、10種類以上あった」

きちんとしたゲノム解析がされていなかったから、見つかったものを順番に数えて「2種類」としていただけだった。

具体的な成果も出ている。クモ糸には「超収縮」という問題があった。水に濡れると50%も縮んでしまう。服を作っても、洗うと大人用が子供用になってしまう。

「データベースを見ると、特定の配列があると超収縮が起きることがわかった。じゃあその配列を潰してくださいとSpiber社に伝えて、作ってもらった。今は洗っても縮まない繊維ができています」

配列を変えれば物性が変わる。「欲しい物性」から「必要な配列」を逆算する、そんな設計が視野に入ってきた。機械学習を活用することで、アミノ酸配列から糸の強度や伸び率を予測するモデルも構築されている。

Part2:TGIで描く「食の未来」―味のゲノム解析とデータ化で日本酒を「記述」する

鶴岡食文化創造研究所(TGI)では、まったく別のことをやっている。お酒だ。

「ロバート・パーカーという世界的に有名なワイン評論家がいるんですが、彼が最近日本酒をテイスティングして、点数をつけたデータがあるんです」

パーカーポイントはワイン業界で絶大な影響力を持つ評価指標だ。100点満点のスコアと、詳細なテイスティングノート。95点以上がつけば、その瞬間から値段が跳ね上がる。そのパーカーが日本酒を評価したデータが、山形県の酒蔵を中心に存在していた。

「山形県、特に庄内地方の日本酒が非常に多く評価されているんです。これは使えると思いました」

荒川氏の構想はこうだ。日本酒に含まれる成分(メタボローム)を網羅的に測定し、パーカーポイントと対応づける。すると、「この成分がこの濃度で含まれていると、パーカー氏はこう評価する」という予測モデルが作れるはずだ。

「メタボロームで測れば、どの物質がどの香りに対応しているかがわかるはずです。パーカーが評価した78本の日本酒を全部買って、データを取る。そこから機械学習モデルを作れば、メタボロームのデータを入力するだけで、テイスティングノートとスコアが自動で出てくる」

さらに野心的なのは、テイスティングノートの自動生成だ。

パーカーのテイスティングノートは極めて科学的だ。「淡い青レモン」「ジャスミン」「オレンジの皮のフルーティな香り」ソムリエは匂いのサンプルを嗅ぎ分ける訓練を受けており、言葉と香りが対応している。

日本酒の成分を測定するだけで、「パーカーならこう評価し、こう表現するだろう」という予測が出力される。酒蔵にとっては、自社の酒がどう評価されるかを事前に知ることができ、商品開発に活かせる。

「日本人でも日本酒を選ぶのは難しいですよね。『甘口です』『辛口です』くらいしか情報がない。『85点で、ジャスミンと柑橘の香り、後味にかすかな苦み』と書いてあったら、選びやすいでしょう。それが英語で出力されれば、海外の人も買いやすくなる」

ボルドーの味を鶴岡で

日本酒研究と並行して、ワインプロジェクトにも取り組んでいる。

「慶應先端研は来年25周年を迎えます。それに合わせて慶應のワインを販売しようと考えています」

鶴岡市には、メルローや甲州といったワイン用ブドウを栽培する農家がいる。しかし、単に地元のブドウでワインを作るだけでは、世界的な銘醸ワインには及ばない。

「そこで、ボルドーのポムロール地区—ペトリュスやル・パンなど、超高級ワインの産地—のワインをメタボローム解析しました。どんな成分がどの濃度で含まれているかを調べたんです」

その成分プロファイルを「目標」として、鶴岡産のワインを複数ブレンド(アッサンブラージュ)することで、ボルドーの味に近づけようという試みだ。今年4月から発売予定だという。

TGIでは、食の科学と文化を融合する

TGIで荒川氏が考えている「役割」は、大きく3つある。

1つ目は、先ほどのティスティングノートに代表される「おいしさの言語化」だ、メタボローム解析を通じて、今あるものに科学的な裏付けを与え、製造工程を最適化する。日本酒研究やワインプロジェクトは、この文脈にある。

2つ目は、「新しい食材の創出」だ。慶應先端生命研究所発のスタートアップ、フェルメクテス社が進める納豆菌由来のタンパク質食材に代表されるような、「まったく新しい食」の創造。「すでに地元企業と組んでフィナンシェを作ってみたんですが、従来の素材では出せないしっとり感がある。これは代替食ではなく、新しい『食文化』の提案です」

そして、荒川氏が最も熱を込める3つ目は、「食の個別化」だ。

鶴岡市は2014年、日本で初めてユネスコの「食文化創造都市」に認定された。在来野菜が60品も受け継がれている。なぜ、これほど残っているのか。

「出羽三山は600年以上の歴史がある修験道の聖地です。当時、お金がなかった巡礼者は、各地から種を持ってきて、宿代の代わりに払っていた。庄内の人たちはそれを守って育ててきた。だから、日本中で失われた在来野菜がここには残っているんです」

そこで荒川氏は、腸内環境研究で知られるメタジェン社(慶應先端生命研究所発ベンチャー)の技術と掛け合わせ、個人の腸内細菌叢や代謝データに基づいて、その人に最適な食材を提案しようとしている。

「ここで鶴岡の在来野菜が活きてきます。在来野菜の成分をデータベース化し、『あなたの腸内環境には、この在来カブが一番合う』と提案できたらどうでしょう。効率化で失われた多様な野菜たちが、個人の健康を支える『機能性食品』になるのです」

ケミカルなサプリメントではなく、土地の風土が育んだ多様な野菜が、科学の力で個人の身体とマッチングされる。これこそが、TGIが目指す「科学と食文化の融合」の究極形かもしれない。

「邪魔をしないのが仕事」

だが、自分がすべてを主導するつもりはない。

「トップの役割は、邪魔をしないことだと思っています」

日本の組織は、新しいことをやろうとすると水を差されることが多い。「研究費でお酒ばっかり買って遊んでるんじゃないか」——そう言われればやる気も萎える。

「旗を振ることも大事だけど、邪魔をさせないことも同じくらい大事。『まあまあ』なだめる役割ですね」

「面白い」が世界を変える

インタビューの終盤、荒川氏にこう尋ねた。「なぜ20年以上研究を続けてこられたのですか?」

答えはシンプルだった。

「面白いからです。それ以外にないですね」

クマムシの飼育法をゼロから確立し、国際学会の大会長を務め、世界的なバイオベンチャーと共同研究を進め、国家プロジェクトの中核を担う。その道のりは決して平坦ではなかったはずだ。しかし荒川氏の口から、苦労話はほとんど出てこない。

「クマムシを初めてちゃんと飼えたとき、嬉しかったですね。ゲノムを解読できたときも。Dsupが見つかったときも。全部、『面白い!』が先に来るんです」

乾燥すれば死んだように見えて、水で蘇る。クマムシが教えてくれるのは、「生きている」とは何かという問いだ。

「私は、生命と物質の間には連続的なグラデーションがあると思っています。クマムシは、その境界線上を行き来できる。だから、生命の本質を理解するのに最適な研究対象なんです」

その問いを抱えたまま、荒川氏は今日もクマムシを顕微鏡で覗き、クモ糸を解析し、日本酒を測定している。

「面白いことをやり続ける。それが、結果的に世界を変えるんじゃないかと思っています」