渡部 徹
- わたなべ とおる -
山形大学農学部 食料生命環境学科 教授/農学部長
渡部徹氏は、工学と農学の2つの博士号を持ち、下水道を”汚いもの”から食料生産の”宝”に変えようとしている研究者だ。日本は肥料の原料をほぼ輸入に頼る一方、下水に含まれる窒素・リン・カリウムなどを毎日廃棄コストを支払いながら捨てている。渡部氏はこの矛盾に着目し、鶴岡市で下水処理水による飼料用米栽培を実施。肥料なしで通常より高タンパク・多収量の米が育った。汚泥を堆肥化した「汚泥コンポスト」は大規模農家に引き合いが殺到し即完売。鶴岡市では現在コンポストセンターを3倍に拡大する工事が進んでいる。技術も安全性も実証済みだが、普及に向けた最大の壁は昭和時代の公害に根づく「下水=汚い」という心理的イメージだ。TGIでは、「食科学」と「文化」を融合することで、この大きなハードルを乗り越え、新しい水と食の循環サイクルを根付かせることに挑戦している。
山形県鶴岡市。出羽三山の精神文化と最先端のバイオサイエンスが同居するこの地で、ある一つの「循環」に挑む研究者がいる。
山形大学農学部の渡部徹教授。彼が主導する「BISTRO(ビストロ)下水道」プロジェクトは、都市生活から排出される下水を肥料として再生し、農業に利用するという試みだ。それは単なるリサイクル技術の確立にとどまらず、私たちが無意識に遠ざけてきた「下水」と「食」という二つの営みを、科学の力で再接続する挑戦でもある。
工学と農学の両方で博士号を持つ異色の研究者は、「汚いもの」の代名詞だった下水道を、日本の食料安全保障を支える資源の宝庫へと変えようとしている。「鶴岡食文化創造研究所(TGI)」において、科学と文化の融合は何をもたらすのか。渡部教授が描く、水と食の未来図を紐解く。
日本の農業は、肥料と飼料——作物を育て、家畜を養うために絶対に必要な2つの要素——を、ほとんど海外からの輸入に頼っている。化学肥料の原料であるリンやカリウムの国内自給率は極めて低く、家畜の餌となるトウモロコシや大豆も大半が輸入品だ。
「農業や畜産をするために、肥料とか餌というのは絶対必要なんですけど、日本国内でそれを賄うことはほとんどしていなくて、全部輸入に頼っています」
渡部氏はそう語る。長年、この状況は”安いから輸入している”という経済合理性で正当化されてきた。しかし、その前提が崩れる日が来た。
2022年頃、世界的な物流の混乱と資源価格の高騰により、肥料の価格が一時3倍近くまで跳ね上がった。それまで当たり前のように手に入っていた肥料が突然手に入りにくくなる。農家は悲鳴を上げた。
「これをいつまで続けられるかというのが、長い目で見た時に非常に気になりました。非常に脆弱なシステムになっている」
渡部氏が指摘するのは価格高騰だけの問題ではない。世界の人口が増え、これまで肉を食べていなかった国の人々が肉食を始めれば、家畜の餌の需要は爆発的に増える。日本が「買い負ける」日はもう目前に迫っているかもしれない。
では、どうするか。
渡部氏が出した答えは意外な場所にあった。下水道だ。
下水道とは何か。
私たちが毎日、台所やトイレで流す水。工場から出る排水。それらを集めて、きれいにして、川や海に戻す——それが下水処理場の仕事だ。水をきれいにすることが目的であり、そこに「資源」という発想はなかった。
しかし、渡部氏は言う。
「下水の中には、植物の栄養素である窒素、リン、カリウムが豊富に入っている」
考えてみれば当たり前のことだ。私たちが食べたものは、体の中で消化され、最終的には排泄物として体外に出る。食べ物に含まれていた栄養素は、形を変えて下水の中に流れ込んでいく。
問題は、この栄養素が下水処理の現場では「邪魔者」として扱われてきたことだ。
「そういうものが入っていると、取り除かないで環境に戻してしまうと、それを餌にして藻がわっと生えてしまって、水が緑色になったり真っ赤になったり」
いわゆる富栄養化だ。湖や池が緑色のドロドロに覆われてしまう、あの現象。だから下水処理場では、わざわざお金とエネルギーをかけて、窒素やリンを取り除いている。
取り除いたものはどうなるか。「汚泥」と呼ばれる固形物として回収され、燃やして灰にして、埋め立てる。処分費用を払って、ただ捨てている。
渡部氏はここに矛盾を見た。
一方では、肥料の原料を海外から高い金を払って買っている。もう一方では、同じ成分を含む汚泥を、やはり金を払って捨てている。
「無駄にしてきたものを全部畑に使って、食料生産に漏れなく使いましょう」
これが「BISTRO下水道」の基本的な考え方だ。
渡部氏が山形大学農学部に着任したのは2010年。それまでは東北大学の工学部で下水処理の研究をしていた。
「農学部に来たもんで、農業とか食料生産に関わる仕事をした方がいいだろうなと、自分の中で考えました」
工学の視点から水を「きれいにする」ことを追求してきた研究者が、農学の視点から水を「使う」ことを考え始めた。博士(工学)に加えて博士(農学)も取得し、2つの分野を橋渡しする立場に立った。
転機となったのは、鶴岡市との出会いだった。
「鶴岡市の下水道課にチャレンジングなことをするのを非常に楽しむ人がいて、その人がよく手助けしてくれました」
自治体の中にも新しいことに挑戦したい人はいる。渡部氏は鶴岡市の担当者を通じて、農協や地元企業とのつながりを作っていった。
2017年、山形大学、鶴岡市、JA鶴岡、そして民間企業3社が「下水道資源の農業利用に関する共同研究協定」を締結した。7者が手を組んだ産官学連携の枠組みだ。
最初に取り組んだのは、下水処理水を使った飼料用米の栽培だった。
なぜ「飼料用」なのか。人が直接食べる米ではなく家畜の餌になる米を選んだのには理由がある。
「人が食べるものも作れるんですけど、きっと抵抗があるだろうなと。家畜の餌から始めていこうかと」
下水処理水には窒素が多く含まれている。窒素は植物の生育を促す重要な栄養素だ。実験の結果、下水処理水で育てた飼料用米は普通の水で育てた米よりもタンパク質が豊富で、収量も多いことがわかった。
しかも肥料を別途購入する必要がない。農家の生産コストのうち、肥料代は約15%を占める。それがゼロになれば経営は大きく改善する。

下水処理水を使った水田
下水処理水だけではない。汚泥も使う。
下水処理の過程で発生する汚泥は、微生物の塊だ。水の中の汚れを微生物が食べて分解し、その微生物の体が汚泥として残る。汚泥の中にも窒素やリンなどの栄養素がたっぷり含まれている。
これを「コンポスト」——堆肥にする。
「イメージとしては、家畜の糞尿を堆肥にして畑に撒くというのと同じです」
鶴岡市では、下水処理場で発生する汚泥の3分の1を堆肥化して販売している。「汚泥コンポスト」と呼ばれるこの肥料は、大規模農家を中心に引き合いがあり、すぐに売り切れてしまうという。
「3〜4軒の大規模農家さんが買っちゃうと、全部なくなってしまうぐらいの量しかない」
需要はある。問題は供給量だ。
鶴岡市は現在、コンポストセンターの規模を3倍に拡大する工事を進めている。完成すれば、下水処理場で発生する汚泥の全量を肥料化できるようになる。
「全量を使ってもらえたら下水側はありがたい。今まで燃やして埋め立てるだけだったものが、全部有効活用できる」
下水処理場にとっても汚泥の処分は頭の痛い問題だった。燃やすにも埋め立てるにも費用がかかる。それが肥料として売れるなら、コストがプラスに転じる。
鶴岡市の取り組みは、さらに広がりを見せている。
それは飼料用米を使って豚を飼育する実験だ。下水処理水で藻類を育て、その藻類を餌にしてアユを養殖する試みで、2023年には「つるおかBISTRO鮎」として商品化された。天然に近い独特の香りと風味が特徴だという。

コンポストを使ったトウモロコシ
2019年には、下水道資源を活用した野菜を鶴岡市内の小学校給食に提供するプロジェクトが、国土交通大臣賞「循環のみち下水道賞」を受賞した。下水処理場の消化ガスによる発電の余熱でハウス栽培を行い、冬場に不足しがちな葉物野菜を育てて給食に出す。子どもたちにも「おいしい」と好評だったという。
順調に見える鶴岡の取り組みだが、渡部氏は課題を口にする。
「作ったものを使ってもらうというところの、農家の人に使ってもらうというところのハードルがやっぱり高い」
技術的には問題ない。安全性も確認されている。それでも、「下水」という言葉が持つイメージが、人々の心理的な壁となって立ちはだかる。
この壁には歴史的な背景がある。
「昭和の時代に、汚泥を畑に撒くってことを結構強引に進めた時期があった。その時に、重金属が含まれていたということが何件かあった」
当時は工場からの排水管理が今ほど厳しくなかった。重金属を含む排水が下水道に流れ込み、それが汚泥に蓄積した。その汚泥で作った肥料を使った農家が被害を受けた——そんな事例が、農家の記憶に深く刻まれている。
「『下水汚泥は重金属だ』というふうな認識になってしまっている」
しかし、今は違うと渡部氏は強調する。
「今の下水道では、事業所から排水を流す時にものすごく厳しい検査がされていて、そういう穴がない。高い重金属が入ってくることはありえない」
工場が下水道に排水を流すには事前に厳格な検査をクリアしなければならない。特に重金属については厳しい基準が設けられており、基準を超える排水は下水道に流すことが許されない。
「検査してもそんな結果は出るはずがない。でも、昔事実としてあったというインパクトが大きくて、なかなか使ってくれない」
渡部氏たちは農家に無料で汚泥コンポストを提供し、試しに使ってもらう活動を続けている。できた作物の試食イベントも開催する。消費者が嫌がっていないことを農家に実感してもらうためだ。
それでも広がりには限界がある。
「イメージ戦略というか、イメージを変えるための仕組みがあると、一気に変わるんじゃないかと思っている」
渡部氏は率直に言う。
「汚いという気持ちさえ我慢してくれれば、より持続可能な農のやり方ができる」
渡部氏の話を聞いていると、「汚い」とは何か、という根本的な問いに突き当たる。
下水道がない時代を想像してみてほしい。家庭や工場から出る排水は、そのまま川に流れていた。その川の水を、下流の人々が農業用水として使っていた。つまり、上流の人の排水が、下流の人の田んぼに流れ込んでいたのだ。
「下水道を通らなくたって、川を通って、汚いものが農地に入っていたわけです」
下水道ができて、排水は処理場に集められるようになった。処理場できれいにしてから川に戻す。確かに環境は改善した。しかし、処理場で取り除いた栄養素は捨てられるようになった。
「今とっても清潔なところに住んでいることが前提で、昔のことを忘れてしまった。汚いものはどこかに取り除いて、見えないところに投げ捨てれば清潔な状態を守れるかもしれない。でも、その時に本当に大事なものを捨てているんじゃないか」
渡部氏は、途上国での経験を踏まえてこう語る。
東南アジアの一部の国では、今でも未処理の排泄物を肥料として使っている地域がある。衛生上の問題は当然あるが、それは「下水道がなかった時代の日本」と同じ状況だ。
「そういうところに下水道を整備していく時に、ただ水をきれいにするだけではなくて、処理した資源を農業に還元する——そういう循環を最初から組み込んでいきたい」
日本のように、いったん「下水道と農業は別物」という認識が定着してしまうとそれを覆すのは難しい。しかし、これから下水道を整備する国であれば、最初から「資源循環型の下水道」という考え方を導入できる。
「今は汚いものを直接使っているわけですから。それを集めて、きちんと処理して、きれいな肥料にしてから撒く。今よりも綺麗な食べ物を食べられるようになる」
渡部氏は、途上国への技術普及にも力を入れている。タイ、ベトナム、カンボジアなどで、下水と農業をつなぐ研究プロジェクトを展開してきた。
渡部氏にはもう一つの顔がある。下水疫学の研究者だ。
「下水道にはウイルスが入ってくる」
衝撃的な一言だが、考えてみれば当然のことだ。
ノロウイルスに感染した人がいる。その人はトイレに行く。ウイルスは排泄物と一緒に下水道に流れ込む。下水処理場で大部分は除去されるが、100%ではない。わずかに残ったウイルスが川や海に流れ出る。
問題はその先だ。
「海で養殖されている牡蠣が、そのウイルスを吸い込んで、体の中に溜め込む」
牡蠣は海水を大量に吸い込み、その中のプランクトンを餌にして生きている。一日に何十リットルもの海水を体内に通過させる。その過程で、海水中のウイルスも一緒に取り込んでしまう。
「牡蠣にはウイルスは感染しない。だから牡蠣は元気。でもその牡蠣を人間が食べると、人間の体内でウイルスが増えて、お腹を壊す」
生牡蠣を食べてお腹を壊した経験がある人は少なくないだろう。その原因が、実は下水道経由のウイルスだったのだ。
渡部氏はさらに踏み込む。
「下水道を調べれば、その地域で何が流行しているかがわかる」
感染症に罹った人がいれば、その人の排泄物にはウイルスや細菌が含まれている。それが下水道に集まる。下水処理場でサンプルを採取して分析すれば、その地域での感染症の流行状況を把握できる。
「誰が感染しているかはわからない。でも誰かが持っていた病原体をキャッチできる」
これを「下水疫学」という。
渡部氏が特に注目しているのは、薬剤耐性菌だ。抗生物質が効かない「スーパーバグ」の問題は、世界的に深刻化している。
「薬剤耐性菌の問題は、主に病院の中で問題になる。体が弱っている入院患者が感染すると、薬が効かないから助からない」
病院内感染を防ぐためには、その地域でどの程度、薬剤耐性菌が蔓延しているかを知る必要がある。しかし、住民全員の検便を実施するわけにはいかない。
「でも下水道なら、毎日みんな勝手にトイレに行くから、みんなの情報が集められる」
下水を調べれば、その地域の薬剤耐性菌の状況がわかる。病院はそのデータを参考にして、どの抗生物質を使うかを判断できる。
渡部氏は、アジア各国で下水疫学のネットワーク構築にも取り組んでいる。国境を越えた感染症対策に、下水道という意外なインフラが貢献しようとしている。
2025年、鶴岡市に新しい研究所が誕生した。「鶴岡ガストロノミックイノベーション研究所」(TGI)だ。
山形大学農学部と慶應義塾大学先端生命科学研究所(慶應先端研)が連携し、バイオ技術を活用して「食」を革新する拠点として発足した。渡部氏は山形大学側の中心メンバーとして、この取り組みに参画している。
「慶應さんの得意なところは、食品とか植物の細かいことを調べて、目の前にあるものの価値を正しく評価する、あるいは隠れている価値を炙り出すこと」
メタボローム解析——生体内の代謝物を網羅的に分析する技術で、慶應先端研は世界的に知られている。一方、山形大学農学部は作物を「作り出す」ことが得意だ。
「いい性質を持っている食べ物をどうやって作り出すか。そこに繋げていければいい」
渡部氏は具体例を挙げる。
「米の品種ごとの栄養成分や健康機能成分を調べて、どの品種が健康にいいのかを明らかにする。そういう研究を慶應さんにやってもらう」
山形大学には、様々な作物の品種を収集・保存している研究者がいる。在来作物——昔からその土地で作られてきた、市場にはあまり出回らない品種だ。
「今まではただ単に作り方を研究して、ただ単に種を保存してきた。でも、保存する価値がどこにあるのかを慶應さんに発見してもらえれば、在来作物を育てている皆さんのモチベーションも上がる」
後継者不足に悩む農家にとって、「この作物にはこんな価値がある」という科学的なお墨付きは、大きな励みになる。
渡部氏自身のBISTRO下水道の研究も、TGIの枠組みに組み込まれている。
「下水道資源を使って作った作物は、他の作物とどこが違うのか。悪いところばかりが話題になるけど、いい面もあるはず。それを慶應さんに見つけてもらえたら、イメージをひっくり返すきっかけになるかもしれない」
TGIの目標については、渡部氏はこう語る。
「食の文化と食科学を結びつける。食文化が先にあって、科学が後からついてくるという考え方もあるけど、食科学の方から文化を作っていくこともできるんじゃないか」
鶴岡市は2014年、日本で初めてユネスコの「食文化創造都市」に認定された。伝統的な在来作物、精進料理、発酵食品など、豊かな食文化が評価された結果だ。
しかし、渡部氏は「伝統」だけに頼ることに疑問を呈する。
「BISTRO下水道みたいなものも、自分の中では文化にしていきたいと思っている」
資源を循環させる。捨てていたものを活かす。それが当たり前になる社会——そんな「文化」を作りたい。
「なかなか文化にするのは難しい。食科学的なデータがどのぐらい役に立つかはわからないけど、期待している」
科学的な裏付けがあれば、新しい「当たり前」が生まれる可能性がある。
TGIでは、山形大学と慶應先端研の学生が共同で学ぶ科目も開設される予定だ。両大学の強みを持った人材が、鶴岡から世界へと羽ばたいていく——そんな未来を、渡部氏は思い描いている。
インタビューの終盤、話は再び下水道に戻る。渡部氏は、下水道の「再定義」を提案する。
「下水道は水をきれいにする施設だ、という固定観念がある。そうじゃなくて、肥料資源を集める施設なんだと考えてほしい」
かつて、排泄物は川に流れ、その川の水で農業が行われていた。コントロールされない形で、資源は循環していた。下水道ができて、排水は一箇所に集められるようになった。集めて、きれいにして、捨てる。その流れの中で、資源の循環は断ち切られた。
ただ、下水道に変なものを流したらそれは自分たちの食べ物に返ってくる。そう思うようになれば、誰も環境を汚そうとは思わない。
「下水道に変なものを流したら、最後、自分の口に帰ってくる。そういうループを自覚してしまえば、みんなそんなことは絶対しなくなる」
循環という思想。それは技術の問題であると同時に、社会の在り方の問題でもある。
渡部氏は、下水道という「汚いもの」の象徴を、日本の食を支える「宝の山」に変えようとしている。
技術はある。安全性も確保されている。あとは、人々の心理の壁をどう越えるか。
「10年前だったら、こんな話は誰も聞いてくれなかった」
肥料危機をきっかけに、風向きは変わりつつある。鶴岡市には全国から視察が相次いでいる。
食料安全保障。資源循環。持続可能な農業。その答えの一つが、私たちの足元を流れる下水道の中にある。