湯澤 賢
- ゆざわ さとし -
慶應義塾大学先端生命科学研究所 特任講師。博士(工学)。
目次
湯澤賢氏は、世界でも数人しか扱えない「巨大酵素」の研究者だ。抗生物質の7〜8割はこの巨大酵素から生まれているが、2050年には薬が効かない細菌(薬剤耐性菌)による死者が年間1,000万人に達し、がんを超える死因になると予測されている。湯澤は、この巨大酵素を人工的に設計し、新しい抗生物質を生み出す「バイオものづくり」の研究基盤(バイオファウンドリ構想)をここ鶴岡に作ろうとしている。
また鶴岡食文化創造研究所では、江戸時代から200年以上続く在来種のブドウの木から採取した野生酵母を使って、すべてを鶴岡産にする「オール鶴岡ワイン」プロジェクトを始動。鶴岡のワイナリーと共同で開発したワインが世界最高峰のコンペティション「IWC」で金賞を受賞するなど、本人も予想だにしなかった好調なスタートを切っている。
バイオものづくりのインフラ建設と、メタボローム解析技術に基づく新しいワインづくり。2つの夢を追いかける研究者の姿を追った。
山形県鶴岡市。出羽三山の修験道が息づく精神文化の地でありながら、ユネスコ「食文化創造都市」としての顔を持つこの街は、今、世界中の研究者が注目するバイオサイエンスの集積地でもある。水田の真ん中に突如として現れる研究施設。その一角で、湯澤賢は静かに、しかし確信を持って「負けない戦い」の準備を進めていた。
彼の専門は「合成生物学」。生物の遺伝子を設計・編集することで物質生産を行う、”バイオものづくり”を実現する技術だ。米国UCバークレー校を筆頭に10年以上海外での研鑽を積み、世界トップクラスの研究を肌で感じてきた湯澤が、帰国後の拠点として選んだのが鶴岡だった。
彼は今、ここで二つの壮大な実験に取り組んでいる。一つは、人類を脅かす感染症に対抗するための”巨大酵素”を用いたバイオものづくりプラットフォーム(バイオファンドリ)の構築。そしてもう一つは、この土地の風土を科学的に解き明かし、ワイン造りに革命を起こすプロジェクトだ。
一見、無関係に見える「バイオ」と「ワイン」。しかし湯澤の目には、それらは同じ地平にあるものとして映っている。
湯澤が目指しているのは、日本発の「バイオファウンドリ」の構築だ。バイオファウンドリとは、微生物を用いたバイオものづくりのためのインフラ基盤のこと。デザインされた微生物が、薬や燃料、素材など、社会に役立つ新たな物質を生み出す。
米国では2010年代初頭からCRISPRなどのゲノム編集技術の普及とDNA合成コストの低下により、この分野が爆発的に成長した。湯澤もその渦中にいた。
「2018年頃、私が日本への帰国を決めた時、すでにアメリカではDARPA(国防高等研究計画局)などの資金が入って、巨大なバイオファウンドリ計画が動き出していました。日本は数年遅れでアメリカを追う傾向がある。私が帰国して、真っ向から同じことをやっても勝てるわけがないんです」
湯澤は冷静に分析する。すでに国内でも神戸大学が次世代バイオファウンドリの構築計画を進めており、真っ向勝負では分が悪い。そこで彼が選んだ武器が「巨大酵素」だった。
「私がターゲットにしているのは、PKS(ポリケチド合成酵素)やNRPS(非リボソームペプチド合成酵素)と呼ばれる、自然界で最も大きな酵素です。生物界の酵素の中でも群を抜いて巨大で、複雑な反応を何十段階も行って、人間には合成できないような複雑な物質を作ることができる。しかし、あまりに巨大すぎるゆえに、扱いが難しく、普通の研究者は敬遠するんです」
誰もが扱いやすい小さな酵素ではなく、誰も扱えない巨大な酵素。そこに湯澤は勝機を見出した。彼は米国時代に培ったノウハウと独自に開発した「長鎖DNA合成技術」を組み合わせ、この巨大酵素を自在に操る技術を確立しようとしている。
「巨大なタンパク質を作るには、巨大なDNAを合成し、編集しなければなりません。その技術的ハードルを下げ、コストを下げる。私にしかできないユニークなバイオファウンドリを作れば、世界と戦うチャンスがある」
この戦略は、研究者としての生存戦略であると同時に、日本のバイオものづくり産業が世界市場で独自のポジションを築くための、極めて現実的な「別解」でもある。湯澤の語り口は穏やかだが、その言葉の端々には、世界の荒波を見てきたリアリストとしての凄みが宿っていた。
湯澤がこれほど冷静に「勝てる場所」を見極めようとする背景には、彼がかつて身を置いていた場所の記憶が色濃く影響している。彼は「巨大酵素」という武器を手に取る前夜、世界で最も熱い「バイオの震源地」にいた。
2010年代、米国カリフォルニア州、UCバークレー。シリコンバレーの北に位置するこのキャンパスは、合成生物学(Synthetic Biology)が学術研究から巨大産業へと羽化しようとする、まさにその瞬間の只中にあった。湯澤が所属していたのは、合成生物学の世界的権威であり、微生物を使って有用な物質を作り出す研究の第一人者として知られる教授の研究室。そこは単なるラボではなく、未来のバイオエコノミーを生み出すインキュベーターそのものだった。
「15年ほど前ですね。当時、ラボの周辺では次々とベンチャーが立ち上がっていました。その一つが、今や米国で最も成功したバイオ企業と言われる『Ginkgo Bioworks(ギンコー・バイオワークス)』です」
Ginkgo Bioworksは合成生物学のプラットフォームサービスを提供し、後に巨額の評価額で上場を果たすことになるユニコーン企業。しかし湯澤が共に過ごしたのは、彼らがまだ何者でもなかった創業期である。
「当時のGinkgoはまだ立ち上がったばかりで、社員も10人程度しかいなかった。私の最初の研究テーマであるバイオ燃料の開発は、実は彼らとの共同研究だったんです。今や有名になった創業メンバーたちと、当時は普通に机を並べて同じミーティングで議論していました」
世界を変える才能たちと肩を並べ、最先端の景色を見ていた湯澤。当然、彼のもとにも誘いはあった。もしその時彼がそちらの道を選んでいれば、今頃米国で巨万の富を得ていたかもしれない。しかし湯澤は首を縦には振らなかった。
「オファーはありましたが行きませんでした。私はあくまで大学で研究がしたかった」
彼を突き動かしていたのは、研究者としての純粋な野心と、ある種の日本人としての使命感だった。彼はバークレーで、米国が国を挙げてバイオファウンドリ構想を立ち上げる様を間近で見ていた。「また日本は遅れるのか」──その危機感が、彼に帰国の道を選ばせた。
「当時の仲間たちは、今やみんなCEOになったり、偉くなったりしています(笑)。でも、だからこそコンタクトは取りやすい。もし私たちが鶴岡から世界へ打って出る時、彼らとのネットワークは大きな武器になる」
湯澤は米国でのスタートアップへの転職を断り、2020年に日本へ帰国した。
そんな湯澤が、なぜ今、鶴岡で「ワイン」に力を入れているのか。そこには、新設された「鶴岡食文化創造研究所(TGI)」という舞台装置と、鶴岡という土地が持つ歴史が関係している。
TGIは、科学と食文化を融合させ、ガストロノミック・イノベーションを起こすために設立された拠点だ。湯澤はそのプロジェクトの一環として、地元鶴岡のワイナリー「ピノ・コリーナ」との共同研究を持ちかけられた。
「最初は『ワインなんて作ったことないけど、いいんですか?』という感じでした。でも、合成生物学の視点で見れば、薬を作るのも、燃料を作るのも、ワインを作るのも、基本は同じ『発酵』なんです。微生物に糖を与えて、アルコールやフレーバーを作らせるか、薬を作らせるかの違いでしかない」
カリフォルニアでの生活が長かった湯澤にとって、ナパ・バレーのワイン文化は身近なものだった。彼はワイン醸造学の世界的なメッカであるUCデイビス校のことを思い出しながら、軽い気持ちで引き受けたという。
そうして2023年に仕込んだワインは、2025年、ロンドンで開催された世界最大級のコンペティション「インターナショナル・ワイン・チャレンジ(IWC)」で、見事ゴールドメダルを受賞した。その快挙に、関係者は沸き立った。
「正直、私が家で妻と飲んだ時は『美味しいけど、そこまでか?』なんて話していたんです(笑)。でも、ブラインドテイスティングで世界的なソムリエたちが評価した。賞を取った2日以内に、このワインは全て売り切れたんです。」
湯澤が次に見据えるのは、ワインの産地に根付いた土地の「文脈」を科学の力でアップデートすることだ。どういうことか。彼が注目したのは、鶴岡市の櫛引地区に残る、樹齢200〜300年とも言われる「甲州ブドウ」の古木だった。江戸時代に山梨から持ち込まれ、この土地の気候風土の中で生き抜いてきたブドウの木。
「既存のワイン造りでは、ブドウは鶴岡独自の在来品種を使っているのに、発酵させる酵母はフランスから買った乾燥酵母を使うことがほとんどらしいんです。でも、私は思ったんです。『なぜ、江戸時代からある古木に住み着いている野生の酵母を使わないんだ?』と」
ワイン作りに欠かせないのが酵母だ。酵母がブドウの糖を分解してアルコールを作り、同時にワインの風味を決めるフレーバーも生み出す。世界中のワイナリーの多くは、フランスの企業が開発・販売している酵母を購入して使っている。扱いやすく、安定した品質のワインが作れるからだ。
湯澤は古木から野生の酵母を分離・培養し、そのゲノム解析に着手した。
「鶴岡の在来酵母がどういう遺伝子を持ち、発酵させるとどんなフレーバー成分をどれくらいの量産み出すのか。それをメタボローム解析とゲノム解析で完全にデータ化する。フランスワインの表現にあるような『華やかな』『滑らかな』といった文学的な表現だけでなく、科学的なエビデンス(証拠)に基づいた『鶴岡の味』を定義したいんです」
ブドウも酵母も、すべてが鶴岡産。しかも、その酵母の特性は最先端科学によって裏付けられている。湯澤はこれを「オール鶴岡ワイン」として実装しようとしている。
「酵母のコレクションができれば、それはワインだけでなく、日本酒にも、パンにも、味噌にも使える。それぞれのレストランや蔵元に、『この酵母はこういう香りを出すので、料理とこう合いますよ』と科学的根拠を持って提案できる。これが私なりに解釈する、科学と食文化の融合です」
これまでは目に見えなかった微生物の正体を、科学の技術で可視化し、新たな価値として社会に実装する。それは、土地の記憶をバイオの力で翻訳する行為に他ならない。
湯澤の研究は、ワインという親しみやすい入り口を持ちながら、その先には人類の生存に関わる深刻な課題解決を見据えている。それが、Part 1で触れた「巨大酵素」による創薬だ。
「今、世界中で『薬剤耐性菌(AMR)』の問題が深刻化しています。私たちが普段使っている抗生物質が効かない菌が増えていて、2050年には、耐性菌による死者数ががんによる死者を超えるかもしれないと予測されています」
現在でも世界で年間500万人近くが耐性菌に関連して命を落としていると言われる。既存の抗生物質の多くは、実は湯澤が研究する「巨大酵素」によって作られてきた。しかし、自然界にある巨大酵素由来の物質はあらかた掘り尽くされてしまった。
「だからこそ人工的にデザインした巨大酵素で、自然界には存在しない新しい抗生物質を作る必要があるんです。ここに私の構想が活きてくる。鶴岡で確立した技術基盤で、未知の薬を生み出すプラットフォームを作る。それが私の長期的な目標です」
TGIという組織は、一見すると「美食」や「観光」のための研究機関に見えるかもしれない。しかし湯澤にとっては、TGIは「楽しむための食(ワイン)」と「生きるための食(薬・健康)」が、同じバイオテクノロジーの根幹で繋がる場所だ。
「バイオファウンドリは本当に長期的な話。ワインは一般の人にも分かりやすいし、すぐに結果が出るから面白い。もしうまくいって利益が出たら、それも使えるかもしれない」
2つのプロジェクトは、時間軸もスケールも全く異なる。だが、湯澤氏はどちらも「自分にしかできないこと」として捉えている。
「ワインってみんな好きなんですよ。どんどん仲間が集まってくる」
年末にワインセミナーを開催したところ、研究者だけでなく、スタートアップの人間や、様々な業界の人が集まってきた。バイオファウンドリの話は一部の専門家しか興味を持たないが、ワインは誰でも楽しめる。
「だからこそ精神的にもいいんです。メインの研究があって、ちょっとワインがある、みたいな感じで」
講演に呼ばれた時も、最後に「実はワインも作っているんです」と話すと、場が和む。プレゼントとして持っていくこともある。
インタビューの最後、湯澤は少しはにかみながら語ってくれた。
「引退したら、妻と一緒に小さなワイナリーでも開いて、そこで自分が開発した酵母で造ったワインを出せたらいいな、なんて思っているんです」