湯澤 陽子
- ゆざわ ようこ -
慶應義塾大学先端生命科学研究所 特任准教授
目次
湯澤陽子氏は、ドイツ・マックスプランク研究所や米国・ローレンスバークレー国立研究所で10年以上研究した末に、「研究者を支える側」に回ることを選んだ元サイエンティストだ。彼女が就いたのはURA(リサーチ・アドミニストレーター)という、日本ではまだ馴染みの薄い専門職。鶴岡市からユニコーン企業Spiberを含む10社以上のバイオベンチャーが生まれた裏側には、知財戦略の構築から研究資金の獲得支援といった起業の”インフラ”を支える彼女のような存在がいる。研究者出身というバックグラウンドを持つ彼女なりのURAのあり方と、米国・バークレーと鶴岡を重ねた未来予想図について話を聞いた。
世界トップレベルの研究者たちと競い合った末に、湯澤陽子氏(以下、湯澤)は「支える側」に回ることを選んだ。アメリカで見た「ラボマネージャー」という存在。日本のアカデミアに圧倒的に足りない「中間層」。人口10万人を切りそうな地方都市で、なぜ世界が注目するスタートアップが次々と生まれるのか。研究者を支えるプロフェッショナル——URA(リサーチ・アドミニストレーター)として生きることを決めた元サイエンティストに、日本の研究の現在地と、新設された鶴岡食文化創造研究所(TGI)の可能性について伺った。
湯澤は、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)の一期生だ。
「環境情報学部って名前だから、景観とか都市計画とか、そういうことをやるイメージで来たら全く違っていて」
当時、SFCのキャンパスは混沌としていた。パソコンとプログラミングが中心の授業、「アントレプレナーシップ」という聞き慣れない言葉。自分がどこに向かっているのか分からない不安の中で、湯澤は冨田研究室の扉を叩いた。そこには、衝撃的な光景が広がっていた。
「冨田さんもまだ若くて、人工知能から生物学に転向したばかりでした。研究室はとにかく『緩かった』んです。先輩たちは『これはゲーム理論の研究だ』とか言いながら、研究室の時間に平気でテレビゲームをしている。そんな自由な空気がありました」
しかし、その「緩さ」こそが、新しいサイエンスが生まれる土壌だった。まだ「ゲノム」という言葉すら一般的でなかった時代。湯澤は見よう見まねで解析を始め、先輩の指導を受けながらデータを回した。すると、思いがけないことが起きた。
「ただ面白がってやっていたら、それが『論文』になったんです。学会に行くと、世界の研究者が対等に質問してくれる。『あ、研究者ってこうやって世界と繋がれるんだ』という原体験。冨田さんの『面白くやろうよ』というスタンスが、純粋な知的好奇心を高めてくれました」
博士号取得後、彼女はドイツのマックス・プランク研究所、そしてアメリカのローレンスバークレー国立研究所へと渡る。
「いろんな場所に住みたかったんですよ。研究者というのはそれができる生き方だと思っていました」
しかし、海外で見たのは想像を超えた競争の厳しさだった。
「アメリカで研究者として生きていくには、ポジションを取っていかなきゃいけない。でも独立したポジションを取るって、ものすごく熾烈な競争なんですよね」
周りには、世界中から集まったトップクラスの研究者たち。彼らと競い合う日々の中で、湯澤はある気づきに至る。
「あの人たちと競ってトップサイエンスをやるっていうのは厳しいなというのが、腹に落ちたんです」
それは挫折ではなかった。自分自身の適性を、冷静に見極めた結果だった。
「研究者ってやっぱり、『このテーマを解き明かしたい』っていうのがないときついなっていうのは感じていました。一方で、解析屋さんとして何を武器にするかっていうと、新しい手法を作ったとか、新しいパラダイムを作ったっていうことが必要なんですけど、やっぱりそこまでの技術が自分には足りないっていうのは分かっていて」
答えが出たのは、長い逡巡の末だった。
「研究者という存在が好きなんじゃないかって思ったんです。研究そのものというより、研究者という生き方というか。アスリートのようにストイックに真理を追求する人々。その生き方への憧れはずっとありました。自分がそれになれるかっていうとちょっと違うかもしれない。でも、彼らを支える仕事なら情熱を注げるのではないかと思いました」
アメリカで湯澤が目にしたのは、研究者を支える「中間層」の存在だった。
「私が一番こうやりたいなと思ったのは、ラボマネージャーとかいう存在の人でした。大きなラボには大体いて、技術員や経理の人とは別にいるんです。だけどラボマネージャーというのは、研究に関わることを全部やる」
ラボマネージャーは、研究室の運営全般を担う。予算取りの資料作成も、設備の管理も、人員の調整も。研究者が研究に集中できるよう、周辺業務を一手に引き受ける存在だ。
さらに、グラントマネージャーという職種もあった。
「グラントマネージャーはグラントのことだけを考える。大きな予算を取る時には、ここととここの研究室を組ませるとか、そういう役割を果たす。ラボマネージャーとグラントマネージャーみたいな存在って、いいなあって当時から思っていたんです」
なぜ、そうした役割が成立するのか。
「アメリカってアカデミアに生き残るにもすごい競争なんですよね。だから競争に慣れているんです。どんなに成績が良くても、常に常に予算を取っていかないといけない。好きだけじゃやっていけないっていうのがすごいリアルにある」
その結果、研究者として独立することを諦め、支援側に回る人材が自然に生まれる。
「彼らもやっぱり途中までは研究者をやったけれども、自分はPIとしてはやっていくような人間じゃないと思って、ある時期に転向した人も多いと思うんです。そういう人がアメリカのサイエンスを支えている。その層の厚さがやっぱり支えているなって思いますね」
一方、日本はどうか。
「日本はこの中間層が圧倒的に薄い。研究力が低下している真因は、資金不足ではなく『支援層の薄さ』にあると思います」
2017年、日本に帰国した湯澤は、URA(リサーチ・アドミニストレーター)という職種に就く。
URAとは何か。文部科学省の定義では「研究者の研究活動の活性化のための支援を行う高度専門職」とされる。しかし、その実態は大学によって大きく異なる。
「本当に外部資金を取ってくるプレアウォードの支援だけやる人もいれば、大きなプロジェクトでお金を取ったらポストアウォードでプロジェクトマネジメントをする人もいる。大きな大学では業務がある程度分かれているんですけど、ここ(先端研)は規模が小さいので、なんとなく研究に近い事務職員として何でもやるっていう感じでした」
最初に勤めた大学では、科研費の申請書レビューを年間100本近くこなした。研究者と一緒に、申請書の強みと弱みを分析し、どう伝えれば評価されるかを議論する。
「これだなって思いました。自分自身が研究するわけじゃないんだけれども、この研究のメリットは何で、強みは何で、弱みは何で、どうやって伝えたらより評価してもらえるのかっていうのをすごく問い詰めて、研究者と一緒に作ろうっていう仕事がすごく楽しくて」
しかし、鶴岡に来てからは状況が一変した。
「大手大学のURAは、科研費申請の支援など業務が分担されています。しかし、IABのような小規模かつユニークな組織では、多岐にわたる業務が求められます。広報、視察対応、契約実務まで。正直、『これは私の仕事なのか?』と悩むこともありました」
さらに、当時の所長の冨田勝氏の発案で、一般社団法人の立ち上げにも携わった。
「まさか法人まで立ち上げるとは思っていなかったんです。でも、富田さんが『やるよな』みたいな感じで(笑)。私のURAってこれでいいんだっけ?って思いながらやっていたんですけど、離れてみると、あ、意味があったんだなって分かる。だから常にやっぱり、求められていることを必死でやりつつ、後になって、どれも意味はあったんだなと感じます」
ディープテックスタートアップにとって、知財戦略は生命線だ。湯澤は、その最前線で「契約の戦い」を見てきた。
「これも本当にここ数年で勉強しているところですね」
慶應義塾大学では、知財は東京・信濃町にあるイノベーション推進本部が管轄する。研究者が発明したものは、まずここに相談することになっている。
「若手の人とか、スタートアップに縁がないやって思っている人って、なかなか知財を意識するというのが分からないんですよね」
問題は、発見のタイミングと起業を考えるタイミングにズレがあることだ。
「研究者には、基本的に『世界初の発見』を早くみんなに伝えたいという思いがあります。だから面白いデータが出ると学会発表しちゃったりするんですよ。で、後から『これって知財になるんですか』って言ってきた時に、『だいぶ前に発表しちゃったよね』みたいな話になると、『なんでその時に言ってくれなかったの』という話が起こる」
さらに深刻なのが、企業との共同研究における契約の問題だ。
「共同研究から知財が生まれるんですよね。だから契約段階からしっかりしておかないといけない。やっぱり足元を見られすぎていると良くないし、強気すぎてもいけないし」
湯澤は、企業の知財部門で働いていた人間から「業界の常識」を学んだ。
「大企業の知財部にいた人が、アカデミアに来たりINPITの組織に入って支援してくれるんです。『企業の人はここまでは譲らないでしょうね』と言ってくれると、『じゃあここまで押していいんですね』っていうのが分かる。相手を知っている人がいることがすごく大事」
契約の世界は甘くない。
「普段接していると、すごい和やかなんですけどね。でも裏では結構うまくやっている。やっぱりそれがビジネスだから。そういうのを分かった上で大学もやっていかないと」
そう語る一方で、湯澤はある違和感も口にした。
「ただそんなことばっかりやっていると、『研究者の魂が大事だ』と言っていた自分から遠く離れてきたなって思う時もあるんです」
研究者を支える仕事をしながら、湯澤が守りたいものがある。
「私自身が元々研究者で、やっぱり真理を追求するのが研究者だと思っているんです。お金になるから研究するっていうのは違うだろうっていうところからスタートしているので」
ノーベル賞受賞者の話を聞くと、多くが「そんなこと考えていなかった」と言う。失敗からたまたま見つけた。何の役に立つか分からないと言われながら、やめられなくてやっていた。
「それが後から応用として見出されるっていうのが、本当に大きくなるサイエンスとしての社会実装なんじゃないかって」
一方で、国の研究予算は「成果」を求める。
「国もお金を出すからには、『ビッグチャンス狙えよ』っていう風になる。そこがやっぱり、いわゆる研究者として見ると『そういうもんじゃない』っていう話になるし、税金を配分する方からすると『とはいえ1000個に1個じゃ困るんだ』っていう、ジレンマですね」
だからこそ、湯澤は「バランスを取る」ことを大切にしている。
「私は、研究者が最初にそのテーマを選んだ時の『魂』を忘れてほしくないんです。その純粋な情熱に触れたいから、私も支援をしている。だからこそ、その研究が現実社会で継続できるように、知財や契約という手段で守りたいんです」
研究者の純粋な好奇心を守りながら、それを社会に届ける道筋をつける。その両立が、URAの仕事の難しさであり、やりがいでもある。
地方創生が叫ばれて久しいが、真の意味で「地方発のイノベーション」が定着している事例は多くない。その中で、山形県鶴岡市はユニークな存在だ。IABを中心にバイオベンチャーが群生し、世界中から研究者が集まる。
鶴岡という土地が持つ「磁場」の正体とは何か。湯澤は、かつて暮らした米国バークレー(UC Berkeley)との共通項を見出す。
「鶴岡に戻ってきて感じたのは、『ここはバークレーに似ているかもしれない』という感覚でした」
湯澤がかつて過ごしたカリフォルニア大学バークレー校周辺は、世界最高峰の頭脳が集まる場所でありながら、ヒッピー文化の発祥地でもあり、ホームレスや多様な人々が共存する独特の街だった。
「バスを待っていると、ホームレスのおじさんが話しかけてきて、不思議なプレゼントをくれたりするんです(笑)。そのすぐ横では、著名な学者がコーヒーを飲んでいる。超高度なサイエンスと、人間臭くてプリミティブ(根源的)な日常が同居している。それがバークレーの魅力であり、強さでした」
一方の鶴岡。最先端のメタボローム解析装置が並ぶ研究所から一歩外に出れば、そこには見渡す限りの水田が広がり、冬になれば厳しい雪に閉ざされる。
「東京にいると、生活の全てが効率化され、常に『最先端』であることを求められます。でも、人間にはそれ以外の時間も必要です。鶴岡には、すごいプリミティブに生きなきゃいけないケースも多い。ある意味自由ですよね。余計なこと考えなくていいし、鶴岡には、泥臭い農業があり、圧倒的な自然があり、美味しい食がある。この『プリミティブな生活』が担保されているからこそ、脳みそを極限まで使う研究活動とのバランスが取れるんです」
2025年1月、鶴岡市が申請していた「鶴岡ガストロノミックイノベーション計画」が、内閣府の地方大学・地域産業創生交付金事業に採択された。山形県内では初めてのことだ。
10年間で総事業費22億円。鶴岡サイエンスパーク内に研究所を新設し、山形大学農学部とIABが連携して、バイオ技術を活用した食分野の研究開発を行う。
「他のディープテック、例えば宇宙開発などは、日常生活でその恩恵を感じる機会は限られるかもしれません。でも、鶴岡のバイオは『食』や『農業』と直結しています。日々の食卓で食べているお米や野菜、それがサイエンスと繋がっている」
湯澤は2025年10月、慶應先端研に復帰し、このプロジェクトを推進する立場になった。
「正直、まだ答えが出ているわけじゃないんです。みんな今いろんな方向性を言っていて、まとまっていないのが現状」
それでも、湯澤には確信がある。
「食ってすごく根源的なものですよね。どんなに難しい研究をしていても、私たちも家に帰れば食事をし、子どもに何を食べさせるかで悩む。日に3回、必ず『食べる』という行為をする。その日常の営みと、最先端の研究が地続きになっているのが鶴岡の面白さなんです」
他のディープテックは、日常的に自分が関わることはなかなかない。宇宙も、量子コンピュータも。だからこそ食は難しく、面白い。
最後に、湯澤は鶴岡の未来についてこう語った。
「無理に東京の真似をして、きらびやかな都市にする必要はないんです。プリミティブなままでいい。変わらない田園風景の中に、なぜか世界最先端のサイエンスが存在している。その『違和感』こそを地域の魅力にすべきです」
サンフランシスコでも、「STAY LOCAL」というスローガンが掲げられている。地元の個人商店を守ろう、ファーマーズマーケットを大事にしよう。超アグレッシブな競争社会の中で、プリミティブであり続けることを選ぶ人々がいる。
「『ここでなら、人間としてバランスを取りながら、いい仕事ができる』。そう思って世界中から研究者が集まってくる場所にしたい。私の役割は、そのためのソフトインフラ——例えば、若手が海外に行ける制度や、埋もれている研究機器をシェアする仕組み——を整えながら、この街の『守り人(ラボマネージャー)』としてあり続けることだと思っています」