小倉 立己
- おぐら たつき -
慶應義塾大学先端生命科学研究所 特任助教。博士(理学)。
目次
さくらんぼを長持ちさせる研究が、思わぬ発見につながった。
保存中に起きる「劣化」を調べていたら、その劣化を逆に利用することで、健康成分GABAが増えることが分かった。10粒食べれば1日分のGABAが摂れる。市販のGABA強化バナナは1日3本必要だから、効率がいい。現在、特許出願中だ。
この発見を可能にしたのは、「測れなかったものを測る」技術だった。
小倉立己氏は、「試薬が世界に存在しないから測れない」という化学分析の問題を解決する研究者だ。従来、成分を測るには成分ごとに専用の比較物質が必要だったが、小倉氏が確立した定量NMR法では基準物質が1つあればあらゆる成分を測定できる。2022年にISO国際規格として認定されたこの技術を食品に応用したところ、さくらんぼの「劣化」を逆に利用して健康成分GABAを増やせることを発見――10粒で1日分のGABAが摂れる技術として現在特許出願中だ。さらに、同じ濃度でも味が違う理由を分子レベルで解明し、料理人の勘に頼ってきた「美味しさ」を数値で説明する道を切り開いている。土壌の謎に惹かれてこの世界に入った研究者は今、鶴岡の食に「新しい共通言語」を届けようとしている。
食品の成分表示、薬の純度検査、農作物の品質管理。「この成分がどれくらい含まれているか」を正確に知ることは、日常のあらゆる場面で必要になる。
ところが、「量を測る」というのは簡単ではない。
身近な例で考えてみる。塩水の濃度を測りたいとする。「塩分3%」と分かっている塩水を用意して、味を比べれば見当がつく。5%の塩水、10%の塩水も用意して比べれば、もっと正確になる。
化学分析も、基本的にはこれと同じだ。「この濃度ならこの反応が出る」という比較対象を用意して、未知のサンプルと照らし合わせる。この比較対象を「標準試薬」、濃度と反応の対応表を「検量線」という。
問題は、この作業を成分ごとにやらなければならないことだ。
10種類の成分を測りたければ、10種類の標準試薬を買い、10本の検量線を引く。100種類なら100本。食品には数千種類の成分が含まれることもある。手間は膨大になる。
さらに深刻な問題がある。標準試薬が存在しない成分だ。
小倉:「例えば、ニンニクの臭いの元になるアリシンの前駆体である『アリイン』という成分は、構造異性体として同じ分子式でありながら、構造が異なる4種類の化合物が存在します。
そのうちの1つについては純品の試薬が販売されていますが、残り3つは試薬が全くありません。世界中に試薬が存在しないため、単純に定量することができないという背景があります」
同じ「アリイン」という名前でも、分子の形が4パターンある。そのうち1つは試薬として売っている。残り3つは、世界中どこにも売っていない。買えないのではなく、存在しない。
存在しないものとは比較できない。だから測れない。
小倉が取り組んだqNMR(定量NMR)法は、この問題を根本から変える。
「普通の質量分析系ですと、同じ濃度の成分を何種類か入れても、その成分ごとにピークの強度が変わるので、1つ1つに対してその濃度の決定のための検量線を作るとか、すごい膨大な手間がかかるんですけど。
この定量NMRですと、1つの基準物質さえあれば他の成分も全部定量化できます」
従来は、成分Aを測るには成分Aの試薬が、成分Bを測るには成分Bの試薬が必要だった。qNMRでは、1種類の基準物質があれば、あらゆる成分を測れる。測りたい成分と同じものを用意する必要がない。
なぜそんなことができるのか。qNMRは、分子の中の原子核が出す信号の強さを利用する。この信号の強さは、原子の数に正比例する。成分が何であれ、原子の数さえ分かれば、量が分かる。2022年にはISO(国際標準化機構)の国際規格として認定された。
さらに小倉が開発した「同軸チューブを用いたqNMR測定法」(以下、同軸チューブqNMR)では、測定管を二重にすることで、基準物質と測定対象を混ぜずに済む。
「普通の定量NMRだと、基準物質と目的の物質を混ぜないといけないっていうところから他の試験に使うのがなかなか難しいっていうところがあるんですけど、この同軸チューブを使うと、2つの溶液をバラバラの状態で測定できるので、測定した後の溶液を他の試験に流用できるんです」
混ぜてしまうと、そのサンプルは他の実験に使えなくなる。混ぜずに測れれば、同じサンプルで別の試験もできる。貴重なサンプルを無駄にしない。
「個人的にはめんどくさいなという気持ちはありつつ……やってみたら、あれ、意外といけるなと思いました。そこからデータを整備して固めるのがだいぶ時間かかりましたけどね。なんだかんだ5年くらいかかりました」
5年の試行錯誤。その成果が、山形のさくらんぼを変えることになる。
TGI(鶴岡食文化創造研究所)と山形県工業技術センターは、さくらんぼの長期保存技術を研究していた。
さくらんぼは傷みやすい。収穫してから店頭に並ぶまでに鮮度が落ちる。海外に輸出しようとすると、さらに時間がかかる。いかに劣化を防ぐか。様々なガス条件で保存を試し、鮮度が保てる条件を探っていた。
小倉が関わったのは、「本当にその条件で劣化が防げているのか」を成分レベルで証明する段階だった。
「関わっていって、その時に大量にデータを取ったので、その大量に取ったデータを眺めながら、この解析の方法だったらもうちょっと現象的なところも理解できるかなっていうところで解析を個人的にやってみて。
そしたら、劣化する時のさくらんぼ中の代謝メカニズムっていうのが、『あ、こういうことか!』というのが分かったんです」
データの中に、予想外のものが見えた。
GABAは、ストレス軽減や血圧降下の効果があるとされるアミノ酸だ。チョコレートやサプリメントで「GABA配合」と書かれた商品を見たことがある人も多いだろう。
一般に、GABAはグルタミン酸から作られると言われている。ところが、さくらんぼの保存データを見ると、グルタミン酸の量は変わらないのに、GABAだけが増えていた。教科書通りなら説明がつかない。
「元々GABAってグルタミン酸から変化してっていうのが言われてるんですが、そのグルタミン酸は変わらないのにGABAだけ増えていくというよくわからないところがあったんですけど、実はその中間にアラニンというアミノ酸が関連してて、そのアラニンも増えているところからちゃんと関連性が見えてきました」
グルタミン酸 → アラニン → GABA。教科書には載っていない経路が見えた。
「ようやくメカニズムが分かったという話を工業技術センターの部長さんにしたら、これまで不思議だった部分がわかったと喜ばれました。」
「劣化を防ぐ」研究が、「劣化を利用してGABAを増やす」技術に変わった瞬間だった。
この発見から、現在特許出願中の技術が生まれた。さくらんぼ10粒で、GABAの1日摂取量を満たせる。通常5年かかる開発も、3年で完了した。
なぜ、2年も短縮できたのか。
「最終的に検証したいゴールがはっきり決まっていたのが大きいですね。加えて、ゴールとなる指標だけでなく、その周辺の情報もきちんと取得していました。『ここは絶対にNGだ』と判断するためには、比較対象となるデータがないと違いが分からない。そこをチームがちゃんと認識してくれていた。
もしコストカットという大義名分だけで『その計測はやらなくていい』と切られていたら、検証自体が成り立たなかったと思います」
「何を測ればいいか」が最初から分かっていた。ゴールが明確で、判断に必要な周辺データも初期段階から取得していた。だから無駄な試行錯誤を省けたのだ。
「米をエサにすると卵が美味しくなる」
養鶏農家の間では、経験的に知られていたことだった。山形県天童市の半澤鶏卵では、親鳥に与える餌の半分を玄米にしている。すると黄身が白っぽくなり、味がさっぱりする。
でも、「なぜ美味しくなるのか」は分かっていなかった。
小倉は、トウモロコシ100%の餌と、50%を玄米にした餌で育てた卵を比較し、成分の違いを解析した。
「玄米をやった方が、黄身が白くなるんですね。で、白くなった卵の方が、味が美味しいという話で。加熱したら確かにさっぱりしてて」
「美味しい」という主観的な感覚を、成分の数値で裏付ける。生産者の経験値を、科学的に証明する。2021年には「たまごジェラート」として製品化された。
加熱条件の検討でも、データが威力を発揮した。
「卵も一応加熱温度を20度ずつぐらい変化させてみると、その80度っていうのを境に成分がガラッと変わると。じゃ、それ以下にしておかないといけない。見た目も全然変わってしまうので」
80度を境に、卵の成分は大きく変わる。この知見があれば、「80度を超えないように加工する」という明確な基準ができる。勘と経験に頼っていた加工条件を、数値で管理できるようになる。
同じ成分濃度でも、味が違うことがある。
たとえば、リンゴ酸の濃度が同じジュースが2本あったとする。機械で測ると同じ数値なのに、飲んでみると酸っぱさが違う。なぜか。
小倉は、県の工業技術センターとの共同研究でこの問題に直面した。
「簡単に言うと、リンゴ酸とか有機酸って、水に溶けた時にその水素分子が取れることでその味として認識するんですが、それが元々ないやつだと味がしません。
質量分析系でその濃度は出せるんですけど、その濃度値と実際の味で噛んだ時とか、pHを調べた時の相関性がちょっと取れてない。これはなんでだろうって考えた時に、イオン化してるか、してないか、というところに気づきました」
酸味を感じるのは、酸の水素が水に溶けて「イオン化」したときだ。同じ濃度でも、イオン化している割合が違えば、味は変わる。
従来の測定法では、「そこにどれだけの量があるか」は分かっても、「そのうちどれだけがイオン化しているか」は分からなかった。NMRなら、それが見える。
これまで料理人の勘や、食べて評価する「官能検査」でしか分からなかった「美味しさ」の微妙な違い。それを数値で説明できる可能性が見えてきた。
「これまで評価ができてなかったような成分の評価をして、成分自体の絶対的な濃度を調べることで、どれくらいの範囲だったら人に効果があるのか、ないのか、味に関してもちゃんと感じる範囲になるのか、そうじゃないのかとか、そういう基準値を見極めることができるんじゃないかなと思います」
なぜ小倉は、「測れないもの」に惹かれるのか。
原点は、学生時代に取り組んだ土壌研究だった。横浜市立大学大学院で環境科学を専攻し、アフリカ・ボツワナの荒廃地を緑化するプロジェクトに参加した。
土壌は、物理・化学・生物の要素が複雑に絡み合っている。土の硬さ、含まれるイオンの分布、微生物の種類と量。それぞれを別々に研究する人はいた。でも、全部をまとめて見る研究はなかった。
「面白かった理由としては、ブラックボックスすぎて。これまでの研究は、土の方の構造とか物理的なところだけ調べるとか、化学的にイオンがどう分布してるかとか、そういう研究はあったのですが、それをまとめてるような研究はありませんでした。
で、じゃあそこを明らかにしていきたいな、というところがやはり強かったですね」
博士課程修了後、「メタボローム研究ができる場所」を探して庄内産業振興センターにたどり着いた。土壌で培った「複雑なものをデータで見える化する」視点は、食品科学でも武器になった。
温暖化による農作物への影響が深刻になっている。
「それこそ近年、高温化・温暖化というところで、夏の暑さとか皆さん経験してると思うのですけども、あれは人だけではなくて作物に大きな影響を及ぼしています。米の品質が下がってるとか、さくらんぼも熟すのが早すぎて収穫が間に合わないなどの事態を招いています」
暑さで米の品質が落ちる。さくらんぼが市場に卸せない等が起きる。山形は農業大国だ。この問題を放置するわけにはいかない。
小倉は「高温でも品質が落ちにくいメカニズム」の解析を進めている。CO2濃度上昇がイネの栄養成分に与える影響を調べる国家プロジェクト(2024〜2027年)にも参画している。
だが、技術があるだけでは足りない。
「メタボローム解析自体、すごい複雑な仕事なので。数千の成分を分析できますが、それを理解する、そのデータを活用するっていうのがやっぱり一筋縄じゃいかないです。
つい最近、加茂水産高校というところで、高校生向けにメタボローム解析の話をしに行ったのですけど、やはりデータに溺れてしまっていて」
数千種類の成分データ。研究者なら時間をかければ読み解ける。でも、農家や食品メーカーの担当者はデータ解析の専門家ではない。
「解析データはただの数字の海です。それを地元の生産者や企業がどう読み解き、次の商品に活かすか。その『共通言語』をインストールすることが、私の役割だと思っています」
「いいデータが取れました」で終わっては意味がない。そのデータを、現場の人が使えるように翻訳する。それが小倉の考える「共通言語のインストール」だ。
小倉の拠点は、Spiber社やメタジェン社など11社のバイオベンチャーを輩出した鶴岡サイエンスパークの中核、慶應義塾大学先端生命科学研究所だ。
非破壊での成分計測、劣化を価値に転換する熟成研究、「美味しさ」の定量化――いずれも共通するのは、経験と勘に頼ってきた領域にデータという共通言語を持ち込む試みである。小倉はその言語を、研究室の外へ届ける教育活動にも力を注ぐ。
かつて土壌のブラックボックスに惹かれた研究者は、いま山形の食のブラックボックスを開けようとしている。